広報かつら No.157 1982(昭和57)年 11月
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某(9)黙諾広報かつら tl月号郵相藩献闘浦風闘ぼ㈲尉膵能別路髄那紹播郵相藩滋闘揃 去る八月二十三日より三十日 までの七泊八日の日程で、中国 東北地区(旧満州)戦跡慰霊巡 拝をして釆ました。 中国側の国民感情の関係で、 茨城県日中友好訪中団という名 称で、竹内精一副知事を団長と して、県役職月を含めて六十名 で心の巡拝をして参りまtた。 成田より空路、上海、北京、 ハルビンと飛び、ハルビンから チチハルまで二八八キ月は、鉄 道でという行程でした。 期待に胸をはずませて、中国 の土を踏みましたが、三十七年 前、私が、少年の頃の満州とは だいぶ変って居りました。昔は、 泥棒が多く油断もすきもありま せんでしたが、現在は、ホテル の鍵など全く必要ない程治安が 良く、街行く人達の表情は▼明る 去る八月t一十三日〜三十日の七泊八日の日程で、県遺族 会連合会主催による茨城県日中友好訪中団員の一人として、 本村より大字上阿野沢の川野辺博さんが参加されました。 これは、例年海外戦跡慰霊巡拝事業として行われ、遺 族の代表をもって遺霊を慰め、併せて日中友好親善を深 める趣旨にもとずき行われているものです。 を見ましたが、どこを見ても壮 大で驚くばかりでした。 ハルビンに着いた次の日の二 十五日、ホテルの一室でささや かではありましたが、心のこも った慰霊祭が出来ました。随行 の役職員の骨折で、中国側を説 得して行われ、竹内団長が追悼 北京では卜 者を見学し、 く清潔でした。また、どこへ行 っても笑顔と柏手で歓待されま した。 行きは天安門、故 帰りに万里の長城 万里の長姐こて写樹列中央J11野辺さん 冥福を祈る姿がありました。市 街地は、昔とほとんど変りなく、 百貨店や日本人の国民学校等全 くそのままで、現在中国の小学 校になっておりました。 ハルビンからチチハルまでは 鉄道で約六時間、ほとんどが蒸 気機関車でしたが、我々の乗っ た列車は、ディーゼル機関車で した。中国の列車には、硬座皐と のメッセージを読み上げ、一同 が日本から持って釆た供物を並 べ焼香する事が出来、肩の荷をお ろした気持ちになりました。 その後松花江で遊覧船に乗り 約一時間巨大な中洲大陽島の周 囲を巡りました。天気が良く水 泳や日光浴の家族連れでにぎわ っていました。ここは昔、開拓 団の人たちが佳木l斯へ渡河さら に奥地の開拓村に入る交通の要 所だったと聞きました。開拓団 の遺族の中には、そっと甲板か ら造花や米、日本酒を流して、 果てしなき点野の鉄路進み行き 御霊の姿見いラかざ 本の晩秋の気侯との事でした。 戦後中国人によって造られた公 園だそうですが、中国らしくス ケールの大きさにはびっくりし ました。そして植物園には、サ ルビアやハイビスカス等が吸い ていましたが、この寒い所で管 理するのは、大変なことだろう と感心しました。 ふらるき チチハルでは、富拉弥基と言 軟座設あり、硬座事は一般用 我々は、軟座の雇台卓でした。 車窓から見える風景は、広美 とし来しなく続く華族、耕作地 にはトウモロコシ、コーリヤぺ 葉等が作ってありましたが、あ まり収量はなさそう。(今年は、 千魅で不作との事) 三十七年前、父親がシベリヤ へと辿った鉄路を、今こうして 北へ向かって行くと患うと感無 量でした。 巡拝貴北の地チチハルは、曇 り空。肌寒さを感じました。日 う所に泊りましたが、中心街か ら五十キロの所で現在は従業員 一万五千人位の重工業の中心地 との事でした。チチハルの朝は かなり寒く中国に来て始めて小 雨の降る一日となりました。 元関東郡の忠霊塔は、一時期国 恥塔と呼ばれ忌みきらわれたそ うですが、現在は工人文化宮(労 働者クラブ)となっていました。 そこで一行は、全員黙とうをし ましたが、後に中国側からクレ ームがつきました。ここでやは り、教科書問題についての中国 の厳しさを痛切に感じました。 三十六年前の昭和二十一年私 達家族は、現地召集になった父 を残して、ボロ雑布の様な姿で 引揚げました。そしてその時二 度と踏む事がかいだろうと思わ れた中国の土へ再び来て、心の 慰霊巡拝ではありましたが、目 的を果す事が出来ました。 親切に着後まで色々とせ話を してくれた中国の若い通訳さん には、感謝しています。そして 此の度の中国旅行で改めて祖国 のすばらしさを強く感じました。 これからも一層の相互理解と友 好親善が、いつまでも続きま す事を祈ります。

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