広報かつら No.130 1979(昭和54)年 11月
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、b つ 報 広 第130号 昭和54年11月20日(6) 粟野歳時記は江戸末期、文政十 三年の記「阿波野住親父話Lとし て記されたものを「粟野歳時記」 と改窟したものである。 今から盲四十九年前の粟野を中 心とした本村における年中行事、 ならびに近村との関係なぞの大略 がわかり、又当時の一般庶民の生 活状態の一端をも知ることが出来 る貴重なものとして記したもので ある。 なに人の筆になるかわからず、 誤字、あて字が多く判読に苦心し たものである。月日はいずれも旧 暦によるもので現在とは一カ月の 遠いがある。(太陽暦は明治五年 十一月使用決定され翌六年から通 用された。) 本記は昭和四十年発見し解読し たものである。 一月、一年の計は早春にありと いえば正月よりそのように心掛け るべきである。百姓の行事、村の 風儀をはじめとして、心ある者の 耳より腹までわかりやすいように 俗語によって、あらあら口より出 次第筆にまかせて書くには、 まず元三といえば三力日のよう に覚ゆるけれども、元三とは、元 日のことである。年の始、月の始、 東浄「歳時ね 種村莱 広 木 守治郎 日の始なるゆえに元三というので ぁる結涼紬絹家例になら い、姓煮餅、宇田楽などにて三力 日の中ほお祝いするのが普通であ る。そして村内の年始だけは元日 二日までに終り、それより他村の 年始を舅(シュウト)、祖父母、 従弟(イトコ)、姪(メイ)、甥 (オイ)など廻り、そのついでに 近村の親しいそして心安き人にも 立寄り五日までにはのこらず廻り 終り、六日は「山人」といって、 新取りの初りなれば早朝より支度 して山に行くがよい。 女は家にあって年始に釆た人に 新年の祝の挨拶をのべ、そして書 きょうお には煙草盆、次には茶を出辻嘩簡 すべきである。又は他村の縁者年 始に釆たなれば茶、煙草は勿論い うまでもなく、吸もの、酒なども 出すペきである。 餅、吸ものには、青葉、葱、豆 腐などがよく、また鰹節をもかけ て出すべきである。 主人が帰宅したなれば、客の釆 たことをつげる。 「七種の祝」はいろいろむずかし いことがあるけれども、まず百姓 は、家々の家例によって祝うがよ ヽ ○ し▼ ぐムいれ 十 姓農事、耕作の初りであれば、こ れ又早朝に田・畑に鍬入して祝う ペきである。 第一家の主人たるものは、朝起 きを専一として年中心にかけ、軒 下から庭の掃除をいたし、土庸(ド ブ)に掃き溜めおき、だんだんく さりたなれば一年に二、三度払い 置いて助(肥料)に使うがよい。 ことに肥料は一年越に古いものを 使うことがよく、とくに蕎麦(ソ バ)蒔きの助は年瑚の新らしきも のはよくないのである。 又女は親戚、縁者の年始も終れ ば星夜機織(ハタオリ)を心にか なつぎ け、家内人別、何人あつても夏着 うりも おり 織のこらずいたし、そのごは売木 そめちん めん 綿を織り、それを染賃のたしにす るよう心がけ、又夏着の染ようは いろいろ流行染もあるけれども、 流行染は値段が高くつくものなれ あさぎ・かたづけ ば、浅黄の形何がよく、これは第 一洗濯してもはげず、又農人の着 物には最もよケしいものである。 しま 又は千種に糸を染め縞に織れば値 も安く自由に織れるものである。 百姓は衣類そのほか何にても余 おごり り上品なものは着りにしてよくな したね くただ丈夫にして下値な、る品を用 いるよう心がけるべきである。 がんび 男は正月の中薪取り、又雁皮取 りなど早くしまうよう心がけるべ きである。 次号につづく かやぬちに螢をはなつ夏やせの子を安らかにねむらせむため 君帰る夜はかなしくも乱れつつ化粧の水をこぼしつるがな とびなやむ烏ならむかさび声をふたたびきけり雪しまく空 しぐれだつ丘の裸木にむれうつる雀らがきやぎひもじかるらし 詣ずれば 萩咲きこぼる 友の暮 秋葺に 囲まれている 墓一つ 秋草や 送り仏の 跡一つ 老母を 訪ねし庭に 萩こぼる 葉鶏頭 日かげに憩う つがい倭鶏 風波る 野に咲く花や 女郎花 秋草や 刈る人もなく 花咲けり 秋草の 茂みに忍ぶ 道祖神 一株の 自し好文事の萩 秋の空 ばらにさびしく 匂いあり ゝl■、 昭和萬稟集より転載 広 木 葉津乃 高 須 あ さ 宇 野 英一 仲 宮 亀 次 渡 辺 千妙子 所 幸 治 桜 井 肇 加藤木 みさを 小 林 息 之 肇 桐 原 冨 田 ひで子
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