広報かつら No.128 1979(昭和54)年 9月
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ヽ 、b つ カ 報 広 昭和54年9月20日 (6) 第128号 高校生三〇二名、指導者三十八 名、計三四〇名。日立港より北海 道へ向けて十七日午後一時、一人 の欠席者もなく出港した。今年の メーンテーマは、「躍進ご二〇二 名全員がこのテーマのもとに、一 丸となっての出港だ。 「う宣ふ 「きもち悪いノ 「お かあちゃく〜〜んどこのような言葉 があちらこちらで聞かれる。船が 出てまだ一〇分とたっていないの に、もう船酔いが始まったらしい。 高校生の船始末記 阿波山 鈴 木 裕 司 この日茨城県には、波浪注意報が でていた。縦揺れ、横揺れともに 激しく感じる。初めて船に乗った せいもあろうが。特に縦揺れは、 エレベーターのあの不快な感じに 似ている。一部の元気のある者が 酔った人のためにいろいろなこと をしている。出会ってまだまもな い、顔も知らないでいるのに、助 け合いが始まっている。はっきり 言って意外だった。それだけに、 すばらしく思えた。 揺れない大地。あたりまえであ る。が、船から苫小牧港におりて、 強く感じた。思いきりジャンプし たり、走ってみたり、北海道とい うものをまず足の裏で感じた。次 に見た。何もかも初めて。確かに 茨城じゃない′ 今年の北海道はお盆がすぎてか ら暑くなったと、ガイドきんが言 っていた。ちなみにこのガイドさ ん十九歳。 以下は、北海道においての印象 やエピソード・ハプニングについ て述べたい。 まず、非常に残念だったのは、 台風と熟低にはさまれ、釧路へ行 けず、苫小牧港に足止めされたこ とであるひ そこで菩標茶の青年 団との交歓会が予定されていたの だが……。 某CMで、地平線がきれい、な どと言っていたが、そんな印象は ほとんど曳かった。ただ、ポカン と上を見たとき空がすごく高い所 にあるように思えた。はたして、 俺の思い違いか。それから道路や 線路がまっすぐなこと、まっすぐ なこと。 さるぴあ丸船長の話の中に、こ んなものがあった。1船が遭難し たとき、なにがなんでも救おうと したが、無駄だった。なにもかも あきらめ、死を覚悟したとき、人 間は非常に楽になるご結果的には 九死に一生を得たのであるが、海 の男らしい言葉であると感じる。 『楽になる▲』俺にはとうてい納得 できない。 時は帰港式。タラップを三四〇 個の思い出がひとつづつ降りてく る。四泊五日の間、さるびあ丸が 俺たちの家であった。協力、信頼、 その中で俺たちは家族であった。 みんな泣いていた。家との家族と の別れに泣いていた。船長たちは 帽子を手に持ち頭の上で円を描く ように振っていた。みんなありっ たけの声で別れの言葉を叫んでい る。両手を上げ涙もふかず。 四泊五日という限られた時間の 中で、俺たちは、無限のものをも ちかえった。 後輩に告ぐ。是非、参加せよ。 かつら文芸 広木葉津乃 (短歌) 秋日和 量珠沙華おもいがけなく咲きいでて幼な日の夢かえる野の道蔓珠沙華さく野の日ぐれ明るくて自転車はやし村わらべらのみじんなき風ふきとおる朝の道かげと光りのゆれあいまぶし秋空に光りうく芸事宙へのわがあこがれをたちてただよう 秋の陽にいのちの色か蔓珠沙華血潮は赤く吾も生きたし (詩) 野あざみ ( 花賑飛花昔酒花舐わ はやびがをもも園つ些 ア野ス青 ルあ キ 芝 野ひ はふ高バ ぎ′ツ の あ と な た 原ムみ と 中 ざつ れ り に の ひ に み の ばは 誓 と な今 つ つ れ た に し 咲か 出 さ 偲汲咲祭 く紙しおぶむくだよ よ 園てど 角遣 いせ に り 舐 町 て 加藤木 柱 泉 .わ っ し ょ い ぐ る み も 園 よ ね 祭い り 青 柳 貞 子

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