広報かつら No.112 1978(昭和53)年 5月
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ヽb つ ヽ ▲〃 報 広 (5) 昭和53年5月20日 第112号 六、囁化原(徳化康一洞柵 (保丘佐久一合戦のこと 義宗父子膝を進めて、義国に告 ぐ「一旦大山勢をくじいたとは申 せ、もとより全く職滅をしたもの ではなく又々打って来ることもあ るペく、そのいまだ備を立て直き ぎるうちに先んじて、此の方より 攻め寄せればきすが因幡守義勝も ついには終るペし」と、義国うな づき、それ最もなるペし。早々取り 計らえと精鋭を選び父子に与う。 父子うち喜びつつ夜は酉の刻(午 後七畦)に重たり、小場三河守嫡 男城之介先鋒にて、軍士、兵卒四 有余人、宗田花坂(常北町春園)を 打ち過ぎ八幡館(高久)を通り、 頓化原(北方)に押し寄せた。 大山義則公先鋒となり、出丸城 (北方平治館)を固め、相随う面 々高久播磨・徳宿蔵人之介・保高 平治・清水大内歳・田代遠江・大 座畑六郎太郎・大座畑弥五郎・加 藤木弾正忠澄・富田修理之介・富 田兵庫之介等六十余騎、孫根大奥 寺(大光寺)境内に楯籠る軍士に は孫根大学・大山大勝二二村肥前 光盛続いて三村豊後・高額遣斉入 道・平沢源太郎・小堀五三郎・飯 桂付文化財保護審議委月会長広 木 守治郎 村出雲・飯村左馬之介・安土右烏 之介等都合二十八騎にてひか、え、 本城に寄せ来る敵を横撃せんとの 伏兵である。時に小場軍士石嫡孫 兵衛いう「今宵の雲気散々に変り 安心ならず、多くは敵この辺に控 え居るに相違なし、伏兵あればす なわち雁行を乱す。兵襲えあると きは雲行散乱すと言うこと兵書に 見えたり、しかれば今夜中に兵起 り軍乱の相現ると、この辺の大典 寺愛宕社内こそ心もとなし、先打 ち寄せん」。と「間道から愛宕山 大輿寺を襲って敵をうつペし」と 藤兵衛軍を策略す。それより高検 因幡信次は暗夜を幸いと一人大典 寺へ火を放つ。堂塔伽藍見る見る 煩に包まれて物すごく散々に焼払 い猛火炎々と登るところ火炎の中 より白旗三流ほど押立て大将三河 守葦毛の名馬に跨り、金覆輪の鞍 に赤地錦の直衣を着、緋誠鎧を着 込み鍬形金龍頭造りの甲を冠り、 金造りの飾り太刀を下げ、重森め 大弓を持って進み出で、藤兵衛息 光黄糸鍼の鎧を着し馬上に軍士の 旗章を立て百人組兵士を引連れて 進撃す。藤兵衛火炎煙々たる中に 千変万化と乗り廻り、四百余人曹 矢をつがえて敵や出づると火中窺 うことしばし、たちまち寄手の射 倒さるもの十五、六人、寄手色め きサッと引く。石桐息光もともに おされて思わず走らんとするとこ ろ三村肥前進み出ていう「我は大 山の一族三村光盛なり、小場軍士 憶病ども一戦もなく我が陣へ火を 叔ち不孫の至りなり、藤兵衛殿に も相応しからぬ振舞いかな、引返 し「勝負あらせたま、え」息光過るこ と出来ず取って返すと見るより早 く光盛岡三人張の弓に十三東の矢 キート放せば矢は見事に石桐が胸 板を射抜き忽ち馬より逆さに落つ 光盛すかさず飛びかかりて首を挙 げ「石塚方に鬼神と言われた石桐 藤兵衛をば、三村肥光盛が打ちと ったり」と大声上げれば寄手の石 塚方がく然として色を失い石桐が 討死のよし大将も力を落し早くも 浮足立ちたるところ、勝に乗じて 大山方二十八人手足のごとく突撃 (次号につづく) す。 犬の放し飼は やめましょう 最近、県内において、犬の嘆傷 事故が多発しています。これは他 人事ではありません。犬はつない で飼いましょう。 又、年一回の登録と二回(春、 秋) の狂犬病予防注射も忘れずに 受けましょう。 (保健厚生課) す。 郷土誌改訂版 の発行 五十二年郷土誌改訂委員会の発 足をみまして、委月による郷土誌 の内容検討をはじめ、郷土を主体 とした研究・諸調査をたびかさね てまいりました。 このたび、いよいよ村民待望の 郷土誌改訂版の発刊をみた訳であ りますが、改訂版の特色といたし ましては、「史実に基づくところ の改訂を基盤に」特にその中で、 今日の産業の変化・教育の多様性 等が目立っております。 そして、読者の皆さん方には、 内容の理解が容易に得られるよう にするため、写真・図表等をでき るだけ多く挿入し、かつ、文書を わかり易く説明した点でありま 五月三十日を「消土着の日L とす至-とが、昨年十月の第十 回清発着保護会議(会長・福田 総理)で決まりまLた。ちょう ど十年前のこの日、消土着の利 益を守るための「消♯者保護基 本法Lが施行されました。「消 ♯者の日Lは、その十周年にあ たり、今後さらに一人一人が消 貴書としての自覚を高め、消暮 者保護の精神を一■普及させる ために制定されたものです。 「消費者の日」夏雲竺‡

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