広報かつら No.108 1977(昭和52)年 12月
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ら つ 報 広 (7)昭和52年12月22日 第108号 前号よりつづき 行人塚を過ぎて阿久津に上り、 石塚城へ到着せり。 城の内外雑とう物音、声音高く 石塚義国驚き「夜分に兵を引連れ ここへ来たるは何者ぞや」小場氏 答えていうには、小場三河守兵器 を連れて参りたり、石塚土佐守と 対面の仔細を語り「過ぐる五月中 嫡孫朝日丸誕生、死去両度の折大 山の家臣小田部孫九郎を使者に立 てたるは不吉といわんや、まった く我に遺恨ありと見いたり、不孫 のことすて置き難く一戦の上大山 城を攻めとり義勝父子の首討ちと らんと、又我等父子彼のために討 取られ骸を戦場に晒すか、いづれ 勝負をいたさんとここに馳せ来た りピと無念の顔色にて述ぶれば、 城主義国、義久聞くよりただいま 老主の言至極もっともに存ずれど も、なんぞ小場、大山、石塚の三 家において合戦の次第不義不孫と いうべきすでに先祖源義教卿より 連枝一族をもって相分れ墜城を築 き他の一族とは格別の御家筋をり しかるに小場の軍勢大山へ立向わ るとは意外のお召し聞くに堪えず 先づ合戦の儀しばらく鎮りたまえ と諌言すれども、三河守答へて、 -/し 頓化原合戦記 ㈲ 桂村文化財保護審議委員広 木 守治郎 「今や合戦の儀、連枝一族ゆう に及ばず、我が旗下に対してこの まま帰城することは出来ず、直ち に進撃して大山一族を亡さん」と 討論するところへ、謀者の注進あ りていうに大山の軍士当城を攻撃 せんと出陣す。この由きくより雨 将直ちに合戦勝負を決さんと、石 塚越後守一家中集合し軍器を用達 し合戦の先鋒ををす。 一方大山にてもこの旨ききたま へば石塚城へ押寄せんと出立たる。 御大将は因幡守義勝公、嫡男孫次 郎義則副将とをり、その日の出立 は緋鍼の鎧鍬形付けたる龍頭五枚 甲の緒をしめ、金作りの鞘巻、赤 地錦の陣羽織、黒くたくましき馬 に金覆輪の鞍を置き林の鞭も目立 つぼかりの朱に染めなしたしん馬 にうちまたがり、相従う人々に一 騎当千の武士、平沢丹後、上杉長 門、大縄信濃、和田越後、和田掃 部之介、萩谷新左二門、平田靭負 小田部、山崎などを初めとしてそ の勢合せて二百余騎、石塚指して 押寄せるに続いて馳せ参る人々に は高久播磨、大山大膳正次、田代 遠江、阿久津信濃、小林豊後」樺 井専太郎、綿引石見、小堀五三郎、 富田大権院、富田兵庫之介、富田 桂村文化財展も、回を重ねるこ と今年で六回目、毎年村民の皆様 のご協力により、多数貴重な出品 物を一堂に陳列することが出来、 毎回多くの参観者を得て盛会に出 来得ますこと深く感謝いたしてお ります。 殊に昨年より「民具」をテーマ に開催いたしておりますが、これ ら民具はこの地方に古く住みはじ めてから、最近に到るまで長い年 月経験と、智恵によって生れた貴 重をもので、すべてが日常生活に 関係深いものほかりで、現在では ほとんど見られぬものが多いので す。 これらをみることによって昔の 人達の生活を知りながら、現在に 到る経過など知る上に大切をこと です。 修理之介、小野崎小三郎、清水大 内蔵、南條岩戸左工門、関主計(主 水)、平賀新五郎、飯村左馬之介 石井万次郎、横倉兵部、大座畑六 郎太郎、館甚五郎、根本弥兵衛、 仲田市ヱ門、山口掃部、安土式部 田中源蔵、大座畑弥五郎、高瀬伊 太夫、線引内膳、川村市兵衛、高 須兵庫、高堀庄太夫などその勢六 十余騎合せて三百余各々部署を堅 め勇戦して石塚を減さんと要塞に よって休息す。 種村文化財展 又、村内には有名人の書画、骨 とうなど多数お持ちの方もおられ、 これらをじかに拝見することが出 来る最もよい機会でもあるのです。 来年は、中央公民館も出来、資 料展示革も設計されておりますの で、これら貴い遺物も常に村民に 見ていただける様を計画を立てた いと存じております。 な恰、開催にあたっては、史談 会、文化財審議委員会の皆様方に は、出品物の収集・陳列・看守な ど、ご協力に対し、深く御礼申し 上げます。 〝=瓜曹=- 且訝〓〓〓 ‖参与 ※本年度陳列品 春慶塗・掛軸類・ 科書・刀剣類・和鏡 絵画・書信・地図類 検地帳・花篭・置物 三点。 ひとくち知識 世界一の〝魚族民族” 米国の七倍・ソ連の六倍 日本人はど、魚を食べる国民は ありません。 食生活の中での魚の比重を、世 界の国々とくらペてみると、その ことがよくわかります。 アメリカやヨーロッパでは、動 物性蛋白質のうち、水産物の占め る割合はわずか八%前後、水産国 といわれているノルウェーやスペ インですら、二〇%に足りません。 ところが、日本は五〇%前後を 魚に頼っています。そのほか、イ ンド、不シア、フィリピン、韓国な ど東南アジアの国々も五〇%前後 を魚に頼っていますが、食べる量 は韓国、フィリッピンがわが国の 半分、その他の国々は数分の一に すぎません。 江戸時代の教 ・工芸品類・ ・煙草入れ、 ・灯篭等七十
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