広報かつら No.107 1977(昭和52)年 11月
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、b つ 報 広 (5)昭和52年11月20日 第107号 前号よりつづき ただ今小場にては一族を集め当城 へ向け軍の用意最中と申し上げれ ば、そのとき席にいためいめい互 に舌をまき左右を見合す。ときに かく聞く上には致し方なし、やむ をえずと軍勢を集めんと家中の旧 臣平沢丹後筆をとりて書くに 「こ のたび小場三河守いささかの遺恨 によって当家へ敵対いたすよし、 しかれば当家に綾ある旗下の面々 戟の用意して至急馳せ参らるペき 旨義勝宜達に及び候」 以 上 天正三年八月十六日 平沢丹後 花押 大鈍信濃 花押 一族連士各位 右の如く書き認め廻せばお召に隋 い馳せ集る人々には、高久播摩・ 大山大勝・大槌信濃・関主計・山 口播摩・冨田兵庫・仲田市衛門■ 桜井尊大郎・白井万次郎・田中源 蔵・安土左京之介・高額伊太夫・ 桜井修理之介・田代遠江・小林豊 後・小野崎小三郎・冨田大極院・ 南条岩戸左衛門・清水大内蔵・飯 村出雲・小堀五三郎・大座畑六郎 大座畑弥五郎・横倉兵部・平賀新 五郎・川村雅楽之介・館甚五兵衛 綿引石見・根本弥兵衛・富田修理 飯村左馬・高堀庄太夫等、大将三 ( 囁化原合戦記 射 桂村文化財保護審議委員 広 木 守治郎 十余人五首余騎集りていう。 小場の城主三河守小田部孫九郎素 行を押し返して後一族武器を備え 合戦の用意をなす。今や一族など という事なし。急ぎ宿志を遂げん とす。 小場においても亦城内にて合戦の 遅速を争っ。そのとき前小屋左京 之介・高橋因幡・黒沢小太郎・斉 藤重太郎・山形佐渡・羽生縫殿之 介・江戸長門等申すには合戦の儀 は軍勢の多少によらずただ兵の真 心にあり、然し多勢の出陣は一つ の軍略でもあり、先づ敵の兵力を 試さんと広言す。三河守もっとも なりとてこの城へ留守居に前小壷 の城主と外に一人を備え、一手に 石塚城に進み義国会と相計り犬山 城を攻めとらんと出陣す。小場の 大将三河守義宗岡城之介・黒沢小 太郎■高橋右京之介・高橋造園・ 高椿因幡・高橋左近・山形佐渡・ 斉藤延斉・羽生縫殿壷・斉藤重太 郎・江戸長門・江戸善太郎・中川 淡路・綿引内蔵・所善左衛門・山 田織部・山田伝之壷・利早王水・ 小林対馬・田口豊後・大座畑駿河 下達介之進・佐賀内蔵之介・平山 三太郎・石井出羽・広木内近・ 猪野左太夫・加藤主膳・市村右京 大高瀬右衛門・大場三名河・大 隅・根本・神賀・大熊・平沢ユニ 山・中島・鴻巣・船橋・前部・稲 川二二村その外外様の旗下都合三 石余騎小松原を下県行人家を見渡 せば折柄の大雨ついて那珂川の畔 を下る。恐しき水嵩にて渡る様も なけれど今島七郎兵衛何程のこと あらんと此処は岩瀬なりと一番に 飛び込めば、寺島・金子の若武者 どもわれ先にと皆一同飛び入りさ しもの那珂川も何の若もなく打渡り 次号につづく 新生活運動の 実践にあたって 村民一心・一丸となって、新生 活運動を推進してまいりましたが、 ここに本村としての実践項目の決 定をみて、愈々十二月一日から実 施することになりました。 今日に至るまでの経過・推進に ついては、推進協議会長より有放 をとおしてお話をいただき、更に 十一月二日には、再度有放を通じ 実践事項の概要の説明をいたしま した。特に、葬儀に必要な物的施 設の使用手続き・活用等について もご理解いただけたことと思いま す。そして、十分理解に理解を重 ね、共通理解のもとに村民ひとし く新生活運動へ、意欲的・かつ継 続的に取り組んで、明るい村づく りに精進してまいりたいと存じま す。 今日の新生活運動を進めるに当 たって、桂中学校生徒よりは、た くきんの標語をおよせいただきま した。その中、四点の標語につい てご紹介いたします。 ○簡素にくらそう 明るい家庭 ○物よりも 心のかようおつきあ ○簡素化は 新生活への第一歩 ○冠婚葬祭 物ではなくて心から この本村桂中学生よりよせられ た四点の標語を、村内各所に掲示 し、「新生活運動は桂村より」の 意気を村総ぐるみで高揚し、「新 生活運動実践の村」を確立してい こうではありませんか。 ここに、これまでの皆さん方の 新生活への誠意と情熱に感謝申し 上げ、今後の成果を切にご期待い たす次第であります。 種村菊花展示 会開催 桂村菊花愛好会主催の菊花展示 会が十月三十一日より十一月十一 日まで桂村中央公民館で開催され ました。本年は昨年に引き続き第 二回目の展示会とあって出品数も ー二一点、会員も現在七六名と増 えました。また出品された菊は昨 年から丹精こめて作りあげた力作 ぞろい、大輪の]l-菊、小菊など会 場いっぱいに飾ぎられおとずれる 人の日を楽しませてくれました。
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