広報かつら No.92 1976(昭和51)年 7月
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、ぅ つ ヽ一 ・カ 報 広 第92号 6 ファーマーズマーケット (アメリカ) これは農夫の店と云う意味で、 自分の畑でとれたものを、自分の 店で販売することです。日本の産 地直売とか直売方式のそれを店舗 化し、定着化したものです。ロサ ンゼルスの効外で、そんな珍らし い店を見たので次にご紹介しまし ょう。ロサンゼルスは凡そ百年前 ロッキー山中に金鉱を探るため、 山師たちが世界から集まった時、 その足場として栄え出した処です が、その後石油の町、映画製作の (ファーマーズマーケッ上 リボ たち ー ト 囲 伶 二 所 町、近頃は航空機工業の町、漁業 の町として、又豊かな農産物の集 散地としてすばらしく成長し括気 をみせている三百万の大都市(大 阪ぐらい)です。北西の山の手を ハリウッドと云い、映画のスタジ オが集まった町だけに、近くのビ バリーヒルズと云う処などは映画 人達のすてき皇口同級住宅地になっ ています。これに目をつけたのが 近効の農民たちでした。住宅地に 近いアールギルモーアと云う空地 に十八人 露店を出したのが始まりでした。 初めは農産物や食料品などを並べ ましたが、町の成長発展の波に乗 り急速な繁栄をみせ、今ではカリ フォルニア名産のオレ・ンジ(ネー プル)やレモンを始め、あらゆる 商品をとり揃えたスーパーマーケ ットや、みやげ晶店、レストラン を中心に二百余りの屋台店が立ち 並んで、丸で縁日のようを賑わい を見せていました。特に果物は豊 富で美味でしかも安いです。広い 駐車場には何百台という車が絶え ず出入りして、正に三百万市民の 台所です。近年は海外観光者のた め世界各地の商品が集められて、 世界のマーケットと化しています。 この方式は次第にアメリカ全土に 拡がる様でした。カリフォルニア は乾換気候です、毎日が実に明る い青空で⊥た。こんな日に車でや って来た家族連の人達ちが、自由 に露台を囲んで食事している様子 はいかにも楽しそうでした。 私は日本へ帰った今、こちらで も都市と農村の間で、何とかして こんな姿が実現出来ないものかと 空想のような夢を考えています。 風土とたべもの(ヨーロッパ) あちらの食事には、必ず分厚で 大型の牛肉が毎日出ました。これ はアメリカでも同様でしたが、む こうの人の体格が大きいせいでし ょう。それも脂(あぶら)で煮た か揚げたかしたような濃厚を昧で す。そこヘポテトチップ(馬鈴薯 の千切りカラ揚げ)かグリンピー スの塩ゆでを山盛りに添えるのが 普通でした。はじめのうちは毎日 が至極満足でしたが、来る日も乗 る目もでは遂に参ってしまいまし た。ああ、お椀に盛った白いご飯 をお箸でたペたい。お茶がのみた い、味噌汁がほしい、早く畳の上 た思う存分両脚を伸ばしてゴロ寝 がしたい、これは笑えない痛切な 気持でした。 一体食べものや生活習慣という ものは、とても一朝一夕に改める などということの出来をいものだ としみじみわかりました。 人は原始から今目まで地球上の それぞれの場所で、自分のまわり にあるものを食べて着て生きつづ けて釆ました。だから人口増加の 速さに遅れないよう、食料や衣料 の生産方法が上手か下手かで、そ この民族の運命は決まってしまい ます。 日本のように雨が多く夏が高温 だから稲を作って米飯を主食とし たことと、雨が少なくて冬も暖か いヨーロッパで、家畜を餌い肉を 主食としたこととは、どちらもそ この自然(風土)を上手に利用し た点ではまことに賢明な民族だと 思いました。(次号へつづく) 慶 弔 六月.の出生 部落名 氏 名 下 坪 所 早苗 杉山美幸 粟 赤 沢 君嶋久夫 阿波山 小林忠明 死 亡 部落名 氏 名 上 坪 安喰喜八 上阿野沢 長山真一郎 下阿野沢 高堀 英雄 下阿野沢 高堀 こう 下 坪 高瀬 あい 保護者 糟 次 俊 道 邦一 一二三 六セセ八七年 二八九三六令 夏の交通安全運動 ○実施 期間 昭和51年7月20日・~8月31日まで ○スローガン 交通ルール、守るあをたが、守られる

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