広報かつら No.89 1976(昭和51)年 4月
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/ 広 報 か つ ら 第89号 ルの区画整理㍉同四四年度は高根 上持一部を加え三七ヘクタール を実施、同四五年度は上咋一円と 常北町一部六〇ヘクタールの区画 整理を実施、更に同四六年度は下 咋一円五三ヘクタール、又当地区 末端排水柵渠七百メートルを加え同 四七年三月全事業を完了した。顧 みればこの事業は各役員を中心に 受益者一丸となって計画の推進、 換地作業等日夜の奮闘努力は筆舌 に尽し簸い労苦であったが全員よ くこれに耐え、分散していた耕地 を集団化し、赤沢江の再現ともい うべき用排水路を整然とつくり農 徳ケ原古墳は北方小学校の東北 隅にある横穴式石室がこれで、こ 雌緊瞞頓(徳)ケ原古墳⑨ とっけがはら 墳 舌 原 ケ、 徳 道を縦横に整備して初めて近代的 機械化作業の効率的利用を可能に した。当時を偲び只感涙にむせぶ のみである。ここに県営圃場整備 事業の完成により区画整然とした 美田を一望に眺め、八満山系の景 勝地御前山を背にひらけた我が郷 土の永遠の発展を願いながら本村 中央部国道沿いに記念碑を建てそ の経過と関係者の名を刻み後世に 伝えるものである。 昭和五一年二月吉日 桂土地改良区 理事長 大森 三千三 の石室の床面積は五平方メートル にも達し、高さも大人が立って自 由に歩けるほどであるが塚は何回 も切崩され形は著しく歪められて その全容は知ることも出来をいが もとは前方後円墳で全長三十五メ ートル、高さ約三メ-トル周囲に 堀をめぐらしていたという。 古墳は四世紀噴から七世紀頃ま で各地の首長がきそって造ったも のでこの徳ケ原古墳もいつ頃、だ れのために造られたかは詳かでな いが石室に近い羨道の一部を残し て塚が崩されてはいるが石室はよ く原形をとどめている。 しかしこの石室にはどの様な棺 が安置されていたかまた一人の碁 であったか副葬品はどんなものが あったかは現在となっては知る由 もをいがこの様を広い石室で外部 から出入出来る様になった横穴式 古墳では一人の埋葬という打は少 く五人、十人と多数が葬られてい ることが多い。 これは通常夫妻や田子といった同 驚異に値する。 壁面はいづれも凝灰岩の巨大を 切石を組立てたものでその構築は 石室の入口 ←--ご∩心5--→ 建立した土地改良記念碑 習合に出席し、新しい知識を身に つけた若い三十歳台の推進員さん は今後ベテランの推進貞さんとい っしょに成人病対策に、貧血対策 に保健食の並日及に大いに働いてい ただける事と期待しております。 昭和三十九年、種村では脳溢血が 水戸保健所管内で一番多かった為 一一七名の推進員さんを養成し 今年で十三年その活躍はめぎまし く全国表彰を受けました。又村内 での脳溢血の死亡も昭和三十五年 の三十二二二%から昭和五十年の 十三・五%に貧血も昭和四十三年 七十一%から昭和五十年の一四・ 六%に減少しました。新推進員さ んは現在の推進員さん同様一生懸 命頑張り、村民の保健対策に又健 康を村づくりに協力していただき たいと思います。次に新推進員さ んを儲介します。 阿波山 仲田とも子、広木明美 下阿野沢 関正子、関和子、皆川 美津子 上阿野沢 寺田とみ江、所紀子、 去る三月二日食生活改善養成講 習会の修了式がおこをわれ新推進 赤 沢 員さん三一名が誕生しました。一 年間食生晴改善推進員としての講 高 根 族の墓が主である。 た古墳の構築も大化の薄葬会や火 八世紀に入ってこれほど流行し 葬の流行によって改められた。 文化財委員広木寺泊郎 新食生活改善推進員誕生′. 勝村ろく 北 方 大畠美恵子、広木光子、 横倉すみ江 高 久 三村ふく子、中山さだ子、 三村稲子 孫 根 堀野辺洋子、森木みつゑ、 錫高野 園部すみ子、三村鈴子、 岩 船 小林道代、小堀よしえ、 上 咋 食生活改善養成講習会 の終了式 高堀優子 菊地敬子、小島さつき、 所初美 加藤久子、大畠とみ子 添田幸子、森田初枝、猫 野英子 永井ことじ、広木幸子、
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