広報かつら 第41号 1967(昭和42)年 6月
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(2) 幸騒 窮41 昭和42年∈ヲ月1⊂〕【ヨ 茨城県下の全小中学便児童生徒 の体格調査統計がはじめて発表さ れた。. 昭和三十八年五月、茶村の児童 生徒の体格は最下位(赤C印)で あった。戦後の食糧事情が好転し て、北方小学校は、すでに完全給 食も試みていて、他の学校も脱脂 粉乳で栄養はつけていたのに石の 状態であった。 この調教を見て、当村の小間民 の体位がかくまで低下しているこ とを憂いて、当書目会では、一日 も早く其川調理による完全給食に ふみきって、児童生徒の体位の向 上と健康の脚蒐とをはからんとし て、村内小中学校艮、PTAの役 員諸氏と燦満中東ね、三十九年に は全村の父兄の方々の賛意袴得て 学校給食センター設何の封固を立 てたのであった( しかるに、その実碓にあたって 学校給食を 開始するまで 桂村教育長 関 は、時あたかも樺中学校の統合校 舎建築のさなかであり、いまだ体 育館の建設もなされていぬ蹄とて 毎年村費の約四割以上も㌍やしで もたらぬ教育費に、なお約一千万 円以上を要するセンターの事業は 村財政の⊥から到底不可能となっ て一年間見おくるほかな㊥った。 しかし文郡省の方針では闇策とし て学校給食の襲撃惟を認め四十一 年度まで完全給食の実禰を露務づ けてこられ、四十五年までには中 学校も実施をせまられて来たので 遂に対当扁の理解と村議会との頸 助も商まり、中学校体育館の完成 と同時に昭和四十一年度当初予算 八百五十余〃円の建設費が村議会 にて閣托され、ここに多年の要望 の目標を達して、明るい見積が得 られた。 それから、ただちに建築揖設計 に当り設備品のメーカ1工場の調 ▲ 透見学、屋舎裡設、設備品の入札 等を経て、エ肇に若手、四十一年 三月宋には、ほぼ工事も完域し四 月に竣工式をあげて、調理師通の 任命、機械の使用法訓練等を終え て、いよいよ五月一日をもって長 い間の待望であった学校給食も開 始の運びとなった。 もとより学校給食の目標は学校 給食法によって、児童生徒の 「日間生酒における食却につい て、正しい理解と望ましい習慣を 養うこと。 二、学校生酒慧uかにし、明るい 社交性を挙っこと。 三、生活の合理化、栄養の改善及 び健康の増進をはかること。 円食塩の生産、配分および消費 について正しい理解に導くこと- とされている。 よってこれが運営にあたっては、 村では学叔給食の運営委員会も設 匪され、献立会議のメンバーも任 命された。 物資の購入、給食費の納入、そ の他衛生管理等について、運営委 員会にて十分に審議されて、万遺 漏なきように期している。 なお、給食費については、県下 の他町村は中学九日円、小学校八 ◆‥…・……………・…・ 貴い夏も近づきいよいよ伝染病 の発生する時期になってきまし た。昨年は大宮肘茨城肘で赤間が 集団発生し、樫村でも九名の患者 がでました、今年は次のことに十 分注意し伝染病を予防したいと思 います。 一、生水生物をとりすぎないよう 夏の伝染病について irlr lL■■■■「l- 1r lr rrrrrl一,-†享丁象り 1-一■■■▲・1■ 一 ・・・ 一 一 ▲・-■ 一 ・・・・ 一 ∫・・・- 一 ・・・ 一 j・・ 一 ・・・・・・■一l 一 ▲・ 一 ..・・l■■一 一 ‘.一一I....一 t.... 一 ... 一 一 .」一,一..一1-一 一 -. 一 一 かねて村民の多くの方々から御 協力をいただき、また期待されて おりました「種村郷土誌」が、い よいよ出版されることになりまし た。予約出版になりますので、そ のうち駐在員を通して、申込みを 最初であり、出琴Qだけ地域の情 況をも考慮して、物価上昇の中で はあるが、パンと牛乳を主として 、 2、必づ手を靴って食べましょ う。 二、農繁期のつかれを防ぐのに脂 、 琵自費をたくさんとり、特にピ ぞ、「ンBの入った(強化米(農協 にあります)が麦飯を御飯に入れ 百円の線で阿っているが、当村は一副食物を従とし、月小学生六百円 「桂村郷土誌」刊行される ◆・……‥・・ てたべます。(子供には暴飲暴食 をさせないこと、2、寝冷えに気 空つけましょの。) 三、放とはえの撲滅、 ①、紋を撰械七日太脳災の発生源 をなくしましょう。(特に子供は 遊びに夢中になりお腹をすかした まま惜るもかぶらず外いいては危 険です。 ⑧、ゴギブリの駆除(小児マヒの 発生源) 四予防接種 日太閤災の予防接種は忘れないで 受けましょう。 いただきますので、ぜひ一冊をお 申し込み下さるよっお願いいたし ます。 また御家族や、知己の方でも、 ふるさとの思い出として、御璽訊 下さるようおすすめ下さい。 巾学生七百円で賄っていくことに 決定した。 現在六名の調理師、一名の光義 給食セ ン タ ー全景 士、事務兼連転亭一名に所長は教 育長が兼務で作業しているが、小 中学校全員、一三ハ百余名の調理 各学級ごとに盛りつけ、輸送、そ れに食器の回収後は、四千八百個 の貪スプーンの洗いと全食缶の 消毒に、連続の作業で前七時半よ り後五時まで、昼食の小休憩をと る以外はばとんど立ちづくめの労 働である。 しかし、だれもが給食による子 供たちの満足する姿を思い浮かべ て、労苦をわすれて働いている。 最後に、未だ県下においても、十 指のうちに数えられる学校給食セ ンター建設に、村当局、読会議員 の各位、各学校並びPTAの関係 各位の長い間の熱誠なる御支援に 対しては今日この機会に深′姦意 と感謝とを揮げたい。 また、今後この仕事にたづさわ る係員扁も、これからの入梅、 酷暑に向かって適切な処置、改善 した調理、尚一層の衛生管理にと 心をつくして努刀し大方父兄各位 の御期待にこたえる覚悟をかため ている。 五、農業中音について 夏は色々の農業を使い皮膚から吸 収され知らない問に肝臓をおかさ れる恐ろしいものです。農薬(水 銀剤〕を使う時は眼鏡とマスク、 手袋をはめ十分防備して仕事にか かりたいものです(種村の病気の 統計をとりますと、五月から六月 に眼の病気が多いのは眼鏡をかけ ないで贋薬を使う為ではないかと 風はれます。) 以上十分注意し、健康にこの夏を 過しましょう。 保健婦 この郷土誌は、編さん委員会が 約二か年にわたる調査や研究の成 果でその内容はつきの通りです。 ○規格A5判 約三〇〇頁 写真約一八〇枚ほかに地図等 ○内 窄 一、ふるさとの白然 種村の位置、面積。地勢。地質 山や川。気侯。生物などを概観 しました。 二、ふるさとのあけぼの ∴村内の縄文式文化時代・弥生式 文化時代・古墳時代の遺跡や、出 土品について述べました。 三、ふるさとの移り変り 古い時代「常陸」 (ひたちのく に)の起りから、那珂郡(なかの こほり)茨城郡(いばらきのこは り)となったこと。そして郷里制 になって、阿故郷・石上郷、原島 郷に属していたこと。さらに明治 になって町村制の実施によって旧 三、か村ができ、町村合併によっ て。「種村」ができるまでのこと が概観してあります。 四ふるさとの城址・館址 平安時代になって、武士が起り 常陸には、平大場や那珂氏が興り ついで太田を中心とする源氏の一 族である佐竹氏が勢力を得各よう になりました。 わが村はそのうちでも、佐竹氏 の一族である大山氏の居城であっ た「犬山城」をはじめ、「孫根城 」高久城」などの城址をしのんで みました。 頓化院の合戦についてもふれて あります。 五、丞戸滞とふるさと 徳川時代になって、わが村は水 戸滞に屈しますが、当博をしのぶ 「赤沢江」や岩船石、錫鉱の発捉 赤沢耕山寺事件、天保の改革など にふれました。 幕末になって、瀾冥と開渇をめぐ る意見の対立は、教皇と任帯に発 展して、讃内が天狗党、書生環に 分かれて紛争し、わが村もたくさ んの犠粍者がでたことを述べまし た。 六、明治維新とふるさと 明治維新は、わが郷土にも大変 華をもたらしました。市川勢によ る弘道館の戦いの前哨戦である、 阿波山の戦いや、地租尤反対した 小瀬春秋にっいても述べました。 茨城県の延生から、近代戸籍の 始めである壬戸籍にもふれまし \“ た。 七、戦争とふるさと ここでは、明治維新から太平洋 戦争(大東亜戦争)までの、十回 にわたる戦争と、わが村の記轟で す。戦争によって犠牲となられた 戦故老の氏名もあげました。 八、ふるさとの宗教 ここでは、苦の人たちの敬神崇 祖の生活を中心に、阿波山上神 社、石船神社を始め氏神について 述べてあります。 また、寺院として大山寺、竜谷 院をはじめ、廃絶した寺について もできるだけ書きました。 キリスト教については、坪ハリ ストス教会について述べました。 九、ふるさと教育 水戸滞の郷校だった野口時よう 館とともに、庶民の教育機関だっ た寺小室や私塾にっいてのべまし た。 明治五年、軍制が頒布になり、 学校教育が始まるわけですが、小 学校、国民学校を経て、現在の六 三制になる経過をかきました。布 地方、岩船、沢山の四小学校の沿 革にもふれました。 統合した種中学校についても同 様です。 青少年を対象とする実業教育の 歴史や、青年会、婦人会、P、 T、Aの活動にもふれました。 一〇、ふるさとの文化 ふるさとと関係のある古事記や 万葉奨の文学作品から、究在も多 くの文学活動をしている人々の作 品にも及びました。 その他、民謡、童謡、方言、彫 刻 工芸、絵画、など文化一般につ いて述べました 一一、ふるさとの民俗、伝説 生産にとものう行車や、正月の 行事、古い伝統と信仰によって、 受けつがれている講(こう)につ いてかきました。 また、としよりから語り伝えら れている、多くの伝説を拾ってみ ました。 一二、ふるさとの交通、道端 百代の陸路としての「那須街道 をたずね。明治以後。鹿追となり 国道第一二三号線に移るまでのこ とを書き、県道についてもふれて あります。 水運として那珂川の重冥だった ことば申すまでもありませんが、 高腫何岸(かし)を始め、渡舟場 プロペラ船のことなどとがかかれ てあります。 陸運の発達は、人刀尊から、乗 合馬車、バス、ハイヤーとなり、 茨鉄線が裁かれ、廃止になるまで の歴史も述べてあります。郵便局 については阿波山、岩船両局につ いてふれました。 一三、ふるさとの産業 農業は村の経済を享入る基盤で すから、多くのページをとりまし た。 農地、恩家の傾向、土地条件、 土地利用を始め、農業技術の発展 が、いかに農業の進歩に頁けんし ているかを恵じきました口 農業協同整ロ、農業共済組合、 改良普及事業・林業・商業・工業 鉱業・水産業・観光等についても できるだけ、資料を集め、考察し てみました。 一四、ふるさとの民生治安 現在は福祉行政といわれるほ ど、政治のめざす理想は、福祉の 増進にありますから、民生として の生活保護・健康保険・老人の福 祉、児童の福祉壷民年金等の現 状と問題点をあげてみました。 治安では、警察の歴史から、 最近の犯罪の傾向・交通事故など について考察してあります。 消防・水害についても、歴史的 に考えてみました。 一五、ふるさとの政治 自治体としての「村」がどのよ うにして起り、維持されてきたか 明治維新後、町村制の実施を経 て、種村が生まれるまでの経過、 そして現在の種村が、どのような 阻放で運営され、村の財政がどう なつているかについて考察しまし た。 旧村の沿革も記録としてたいせ つですから述べ、代々の村長名む 一覧表にしてあります。 一六、ふるさとの人々 わが郷土を、こんにちの繁栄の ために、尽くされた人、志士・軍 人を始め、特定の業績の濁った 人、約五〇人を選び、その事腰の 概要を述べました。 一七、ふるさとの村 ここは、総括ともいうべきもの を「風土記」のように、散文的に 書いたものです。 付録として、種村についての年 表や対図、さらに、村内にある、 多くの官衝・学校二団体の役職員 を一覧表にしきした。 三月届出のお悔み 住 所 氏名 下阿野沢 高城 ナカ 赤 沢 仲田はつの 下阿野沢 船橋 くに 上阿野沢小林勘一 阿汲山添田さき 上阿野沢櫻井 いく 高 久.平山 うめ 鍔高野北高野ゆき 孫、横 加藤木ちよ ク 青柳 す江 粟ク 北ヨ系住 四月届出のお悔み 住 所 氏名 阿波山住谷 たつ 錫高野靡町万之介 錫高野小林 た渾 赤 沢 桧山 操 四月届出の出生 錫高野 江昌竹之介 住 所 阿波山 高 根 赤 沢 ≡月届出の出生 所・氏名 根 加藤充実雪 万 雷木 忠城 関根寿治 稲川 恭子 万 雷柳 ゆき 万船橋 あさ 氏 名 仲田 智朗 大越美智子 川又千代乃 吉川 晃 関根ゆかり 三村 和枝 哲毛先克8毛尖筆,勇鮎要薯 聖堂克真空責荒天書聖筈 保 克実均窪堂供慧
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