広報じょうほく No.507 2004(平成16)年 9月
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生と死を分ける激戦地で戦 って生還。そのような壮絶な 経験を戦記や自分史としてま とめた著書を出版している、 宮本通治さん(78歳・石塚)。 当時の体験や心境、また著書 についてお話を伺いました。 私は、県立水戸工業高校 横磯科を修了後、昭和18年、 予科練習生として土浦航空 隊へ入隊しました。そして 921海軍航空隊 (海上護 衛専門航空隊) へ配属とな り、雷撃隊員として激烈な 沖縄航空戦に参加しました。 -運命を左右した小松分隊長 沖縄航空戦は、作戦指導 の主体が特攻作戦でした。 しかし分隊長である小枚方 七大尉は 「特別衰撃隊由隔 成に反対し、夜間雷撃隊に なろう」と呼びがけ、特攻 隊 (=必死隊) に真っ向か 皆雷撃訓練を受けており夜 ら反対したのです。隊員が 間飛行ができたという裏付 けもあり、私たちの隊は雷 撃隊に転用され 沖縄航空戦に参戦した 31航空乾占 本 道 治 松分隊長がいなければ今の 自分はなく、私たちの運命 を左右した彼の卓見に感謝 したいです。 特攻隊は帰りの約束が全 く無いが、雷撃隊は敵機に 撃墜されなければ帰りも保 証される、自分たちは雷撃 隊員で場合によっては生き て生還も出来ると考えられ るだけ気持ちにゆとりがで きました。「死ぬ」と 「死ぬ かもしれない」 は大きな違 いです。特攻隊貞から見れ ばどれほどか気が楽だったー でしょう。 】・・当時の体験や心境 情報がオープンにされず、 いつ誰が出撃するかわかり ませんでした。皆自分のこ 蚤癌コ聯。戦地へ行く時 はすごく蟄ろしかったです。 当時は流紅星が多く、それ が米軍の材-ダー射撃かと ドキッとすることもしばし ばありました。しかし、上 空に行っ苦しまえば不思議 と怖さは滞えたものです。 任を果たす、そ J八 卜仁信のない私は必死の状 況でしたが、波が月に輝い て金波銀波に見えてきれい だったのを鮮明に覚えてい ます。また、敵艦と戦闘状 態にあって、本来なら自分 自身パ二lックになりそうな ときにも、敵艦を眺めれば 敵艦もパニック状態で逃げ 回っているのを知り、それ を見ておかしくなったこと もありました。今思えば、 生と死を分かつような極限 状態に居たわりには、常に 冷静に見ている自分が共存 していて難局を救えたのか も知れません。 航空部隊は、陸軍とは違 って血や苦しむ姿は見ずに、 自分の知らない問に戦友の 死を迎えることが多いので、 生と死に対する考え方とし ては、案外さっぱりしてい たところがあったようにも 思います。ただし、戦時下 にあっても、本当のところ は誰も死にたいと思っては いなかったでしょう。様々 な違の連続により生還でき までに発刊した 本は4冊です。 ありのままの事 実だけを文章と して残すよう心 がけ、1冊の執 筆に約3年かか りました。 本を出版した ことで、それま で手に入らなか った情報や事実 が新たに手に入 ったり、交友関 係が広がりまし た。また、全国 からたくさんの 葉書や手紙を頂 き、関心のある 人が多いことに /-.\ た自分は運が良かったと言 えます。戦争は二度とやり たくないですね。 -著書 若くして尊い命を殉じた 大勢の戦友への思いが大き かったです。自分で体験し た事実を亡くなった遺族に 伝えることも含め、後世に 残したい一心でした。 もともと文学青年ではな かった私ですが、興味のあ ることを書くのは好きで 雑誌「丸」 に投稿していた 戦記の原稿をまとめて本に した経緯があります。現在 驚きました。同様の体験を した人は、私の本が自分の 自分史だと言ってくれまし た。 -戦後の沖縄へ 昭和58年、戦後初めて沖 縄や九州を妻と訪れました。 自分たちが苛烈な戦いを繰 り広げた場所が今や観光地 となっている、あまりの変 化に呆然とし、また感激も しました。過去と現在が交 錯して感慨無量でした。 宮本さん、ご協力ありがと うございました。 広報し寸うほく
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