広報じょうほく No.474 2001(平成13)年 11月
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この会が発足したのは昭和39年 3月で、既に37年の歴史を刻んだ 組織になりました。当初は、こん なに長持ちし、すばらしい会員が 続々と輩出するなど思いもよりま せんでした。と申しますのも、そ のころ私の住んでいた新町三の自 治会で、仲良しだった卜部久雄氏 と故園部利氏の3名が、昭和38年、 香魚を獲ってきて酒飲みをしてい うた る時、「我々は飲み一丁で唄の一 つもできない、民謡の2、3曲位 覚えようではないか」の話で意見 が一致、早速勉強することに決め 匡急u椚 ました。 当時、テレビはまだ普及してい なかったのですが、ラジオでは民 謡が賑々しく流れ、民謡ブームの 前触れを告げていました。まもな く園部氏から、彼の知人で森田さ んという大洗町の方が、「磯節」 で有名な芸者と友人関係にあり、 お願いすれば自宅に来てくれると の善報を得、森田さん宅を訪問し ました。芸者とは、芸名「秀子」 こと大塚秀子さん(秀子さんは、 水戸市、ひたちなか市、大洗町共 催で昭和52年から始められた全国 ヽ晦喝喝同省電錮鮎咽弼軌 磯節大会に、学識経験者代表とし て審査貞を8年間務めた磯節の第 一人者)でした。 秀子姉様は、森田家で我々に三 味線を引きながら磯節を敢えてく れました。その上手なこと、ただ 恐れ入るばかり…。しかし、考え てみると秀子先生のご教授を受け るには距離も遠いし、大体、金も かかる。せっかくの勉強もl回き りで、またの樺会を約束し残念な がら断念せざるを得ませんでした。 しかたなしに、町内外に目を向 け民謡を唄える先生を捜すことに 香魚がとりもつ“暮らし仰牙 「常北民謡研究会」 元会長 山岡 なり、白羽の失を立てたのが故石 沢阿男氏でした。氏は戦前、東京 で家具商を営み、戦後、専売公社 石塚出張所に勤務していましたが、 当時私も在勤し、昭和33年の転勤 まで仲間でした。当時の専売公社 は宴会の棟会が多く、その宴席に は必ずといってもよいほど、石沢 先生が指名されて民謡を唄わされ ました。先生は「江差追分」が得 意で、独特のゴロ、コロガシ、節 句は何とも言えない味があったこ とを思い出します・。 そのころ、石沢さんは定年退職 して自適の身だったので、「好き な民謡だから皆さんと一緒に勉強 するのなら」と快諾をいただき、 毎週土曜日の夜、拙宅のポロ離れ けいこ 部屋で稽古を始めました。最初の 稽古唄が、三大民謡の一つと称さ れる「江差追分」だから、さあ大 変。前唄の大島小島の‥‥の、 オーの発声がままならず、オーの 叫び声、うなり声が町内に響きま した。この話が伝わり、民謡愛好 者が一人、二人と増え、八畳一間 が一杯になってきました。 そこで、どうせやるなら会を結 成し本格的に取り組もうと、昭和 39年の春、常北民謡会が組織され ました。40年代に入るとテレビが 普及し、民謡ブームは最高潮に達 しました。当会も会員が40名に及 ( び、練習場を常北町公民館に移し たのもこのころでした。 46年、石沢先生が病に倒れられ、 同年、水戸市から田中先生を迎え ました。そのころになると会貞の レベルが高くなり、本格的な民謡 の指導を要望する声が多くなった ので、49年秋、県内各地に稽古場 を持つ谷井会に所属し、我々の会 は常北民謡研究会として存続する ことにしました。当時の登録会貞 は50名に達しており、谷井会とし ても中核的な組織として位置づけ られました。 現在、当会は茨城県連の指導者 に3名が認定され、日本武道館で 行われる全国大会では、大畠三重 さんが、平成元年、民謡グランプ リ運輸大臣賞、同6年には長雨ヒイ クトリー労働大臣賞及び郷土民謡 県大会で県知事賞を受賞。また、 飯村忠雄氏は、昭和55年県大会優 勝、翌56年には武道館全国大会で 昭和の部シニアで準優勝するなど、 輝かしい実績を残して活躍中です。 私も日本郷土民謡協会理事の一人 として、来年4月の法人化に向け て、その準備に追われる日々を送っ ています。 生活の中から生まれた伝統ある 民謡を、子孫に伝承したいと会貞 一同切に願っています。 広報じようほく
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