広報じょうほく No.456 2000(平成12)年 5月
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このお語は、私が小学生時代に 学んだことを想い出しながら綴っ たものです。 おおたどうかん 昔、太田道濃という武将がいま した。この人は、今から約540 年前から長禄年間の人で大変強い 武将でしたが、若いころはあまり 学問の方は得意ではなかったとい うことです。それが、ある時をきっ かけに学問にも力を入れ、すぐれ た学者といわれるようになっていっ たのです。それは、若い娘に会っ たのがきっかけでした。 ある時、道産が「狩り」に出て、 にわか雨に遭ったときのことです。 道産は雨具を借りようとしで、 ある民家に立ち寄り、声をかけま ますますお元気な栗林さん した。すると、家の中から若い娘 さんが出てきて、恥ずかしそうに 山吹の花の小枝を無言のまま差し 出したのでした。 道産は、その小枝を受けとり、 そのことの意味を考えましたが、 それが何を意味するのか判断でき ずに、お城に山吹の花の小枝を持 ち帰りました。道産は、学者たち に娘さんが山吹の花の小枝を差し 出した意味を尋ね、「山吹の花は たくさん咲くが実が一つもならな みの いことから、雨具である蓑が無く て貸すことができない」という意 味を知り、娘さんの心情を知るこ とができたというのです。 道産は、自分の無学を恥じて、 それから一心不乱に学問に精進し たということで す。そして、「七 重八重 花は咲 けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」 の名句を詠んだ とも伝えられて います。それか らも、道産は文 武両道に心がけ、 すぐれた武将に なることができ たということで す。 やがて、-&のことが京都大御所 の天皇の知るところになります。 ある時、道産は天皇の御所に招か れいろいろな問答をかわしました。 なんじ その中の一つに豪の魔の風景は…」 と、天皇が尋ねられました。 その間いに対して、道産は 「我が庵は 桧原続き 海近く 富士の高嶺を のきばにぞ見る」 と和歌を詠んで、お答えしたとい うことです。今度は、天皇からの 返礼として、 かゃ 「武蔵野は 萱原野と 開きし かど か、る言葉の 花もあるか な」と、おほめの言葉があったと のことです。 それから後、道産は長禄元年 (一四五七〉に、武蔵野原に江戸 場を築き、一国一城の城主として 栄えたということです。江戸城は、 その後、徳川の居城として活用さ れ、今は皇居として使用されてい ることば、道藩としてもこの上も ない名誉なことであり、喜びであ ろうと思います8 私は、道産が狩りに出て、にわ か雨に遭い、娘に会ったというこ とは、単に偶然ではなく、道濃に 射し「勉強しなさい」という天の 導きであったと考えます。 道港のように、ちょっとしたきっ かけで学習意欲をもつようにもな ります。皆さん、何でもよい、挑 ( 戟してみてください。私も4月23 日で、94歳になりました。今まで のように、読書、旅行、民謡、書 等に努めていくつもりです。 最後に、長寿やボケ防止には何 事にも興味を示し、挑戦していく ことが一番だと考えています。 ㈱ 太田道藩について高略) /太田道潅T432〜1486)。 室町後期の感、本名は鶴千代 麿。源六郎、資長。上杉(扇谷) 走正の執事を務め・古河公方足利 成氏と対立する上杉氏を助けて戦 う0 1457妄禄元)年に江戸城 を築く。 道港は古今の兵書を読み、世に 「軍法師範」と称され、特に「足 軽の軍法」を得意としたといわれ る。和歌にも通じ、建仁寺の僧等 を江戸城に招いて歌の会を催した。 特に、江戸歌合わせや品川千句な どが有名である。 道濫は1486(文明空年に、 上杉(扇谷)家の勢力増大をおさ えるため、相模国(今の神奈川旦 大住郡樽谷で上杉高谷)定正に 殺された。54歳の生涯であった。 有本歴史事典より) 広幸馴」ようほく
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