広報じょうほく No.443 1999(平成11)年 4月
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安土・桃山時代の武将です。尾張 つLまのかみ 生まれ。名は猪右衛門、対島守。 豊臣秀吉に仕え、1573年 (天正1年)に近江長浜に四百石、 1577年に播磨に二千石を与え られました。1581年、織田信 長の京都の馬揃えに名馬を購入し て参列し、信長から賛辞を受けま した。本文はこのときの静です。 1582年に播磨印南郡で五百石 の加増となりました。 陵ケ岳の戦、小牧・長久手の戦 に功をあげ、1585年に秀次に 代わって、長浜城主、加えて秀吉 直蕗領代官となりました。 1590年に小田原の役に参加 しました。その後、掛川城主とな り、遠江〓呂一万石余の秀吉直轄 代官も兼ねました。のちに伊勢と 遠江で九千石加増されました。 1594年(文禄3年)に伏見城 と大和多聞城の工事を分担し、そ の仕事を成し遂げました。160 0年(慶長5年)の関ケ原の戦に は東軍につき、戦功をあげ、その 功として土佐二十万石の領主とな りました。次に、一豊の妻、千代 についてふれてみたいと思います。 けんしきついん 千代は見性院の法号をもって知 られています。1557年、近江 国坂田郡飯村の生まれ、名は千代1 まつ。 幼いときに両親を失い、叔母の ふは 嫁ぎ先、美濃の豪族不破市之丞重 則を頼り、そこで育てられました。 元亀・天正初年ごろ山内一豊に嫁 いだとされます。夫の二塁のため に、鏡台から黄金を出して馬を買っ た話は有名です。 1585年(天正ュ3年)、江北 地震で娘を失い、禅宗に帰依しま した。1587年、のちに湖南和 尚となる捨て子を養育しました。 関ケ原の戦で、二塁の行動を誤 らせなかった賢婦ぶりは世の人々 の知るところとなっています。関 ケ原の戟後、夫一皇とともに土佐 に入国しました。 1605年(慶長⊥0年)、夫一 豊死去の翌日、妙心寺の単伝士印 より見性印の法号を受けました。 1606年に土佐を去り、京都桑 原町に閑居しました。1617年、 60歳で逝去。夫一畳とともに京都 の妙心寺大通院に葬られています。 今なお、一豊の妻、千代の賢婦 ぶりは長く世の人々に語り継がれ ています。 「生きがい」は、人が自己の生 活に「張り合い」や「充実感」や 「幸福感」をもたらすものを見い 出したときに感じる感覚や感情で す。 例えば、「この子が私の生きが いよ」とか「私の生きがいはこの 仕事だ」というように、具体的な 特定の対象と結びつくものです。 こうした対象を見い出すことによっ て、「生きることへの意味」や 「生きることへの価値」を高めて いるのです。 人が「生きがい」を感じている ときの感情は、喜びであり、幸福 感であると思います。そこには、 人間生活に「張り」を与え、「や りがい」を持たせ、生きることへ の目標を喚起させるのです。生涯 学習を通して、「生きがい」の欲 求を持ち続けたいものです。 生涯学習 シンボルマーク 『マナピイ』 い す。東風にのって飛んで行った のでしょうか。 このように東風という言葉は、 みやびごと 王朝時代の歌言葉や雅言とし て使われていたようです。 一方、漁民などの間では、素 しけ 風が吹くと、時に雨や時化とな るので、東風時化などと言って、 東風は警戒されていました。 また、梅東風、桜東風、サワ ラ薫風などと、その時咲く花や れたときに、京都の我が家 の庭の梅をしのんで詠んだ 歌です。この歌に感じた梅 の木が、道真の配所の大事 府まで一夜のうちに飛んで 行ったという伝説がありま こち 東風 - 春を感じさせる言葉 です。春に東方から吹いてくる 風のことをいいます。 「ち」は風の意味を表してい ます。 東風吹かば、にほひ雪」せよ 梅の花 主なしとて春をわす るな 菅原道真 だ 、 これは菅原道真が大 のごんのそち 権帥として筑紫に流さ ( 捕れる魚の名のついた東風の言 い方もあります。 東風が吹いて暖かくなると緑 の季節です。4月29日は「みど りの日」です。そして4月23日 から29日までは「みどりの週間」 です。この時期を中心に「全国 緑化キャンペーン」「都市緑化 推進運動」なども行われます。 緑化推進は、国土の保全や森 林資源の活用の面で重要である ことはもちろん、地球環境を寺 るために必要なことはいう までもありません。ゆとり とやすらぎのある快適な生 活環境を維持し、心豊かに 暮らすためにも緑に親しむ ようにしたいものです。 広報じようほく

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