広報じょうほく No.443 1999(平成11)年 4月
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昔のことわざに、「三つ子の魂 百まで」(語釈地詑詣謂意)と いう言葉があります。 人の心は、「あゝ、これは…:」 と感動し、心を打たれたことはい つまでも忘れ去ることはできない ものです。私にとって、それは小 学校時代に学んだ山内.一豊の妻の 話です。小学校時代に学んだこと ですから、今からおよそ80年前の ことになります。記憶をたどりな がら、復習の意味を含めてお話し してみましょう。 山内一豊が織田信長(尾張・美 濃を基盤に全国統一に乗り出した 戦国・安土・桃山時代の武将)の 家来になって何年か経ったころ、 すばらしく良い馬を譲りに来た人 がいました。この馬を見た人たち は皆欲しいと患いましたが、その 馬の値が金十両、あまりにも高価 なので、だれ一人として手がでま せんでした。 一豊も欲しいと思いましたが、 手が出ずそのまま家に帰りました。 「ああ、金がないほど残念なこと はない。武士としては、あのくら いの馬を持ってみたいものだ」と 独り言をつぶやきました。 そのことを奥で聞いていた妻が 「何事ですか」と尋ねたので、一 畳はその馬のすばらしいこと等を 話しました。すると妻は立って奥 に入り、・鏡台の引出しから一両小 判十枚、金十両を一豊の前に差し ヽ 出したのでした。 一豊は驚いて、「日ごろ貧しい 暮らしをしているのに、これはま たどうしたことか」と聞きました。 すると、一畳の妻は「はい、この お金は私が山内家に嫁ぐときに、 夫の一大事の所に使えと父上様か ら頂いたお金でございます。聞く ところによりますと、ご主人織田 そろ 様には、近いうちに京都で馬揃え をなさいますとのこと。その折に は皆様方、定めし良い馬をめして ご登城のことでしょう。そのとき には、あなた様も良い馬にめして ご登城されることが大事と考えま して、このお金を出したのでござ います。早速お買い求めください」 と言いました。 一畳は、「かたじけない」 と心から妻に礼を述べ、急いでそ の馬を買い求めに行きました。そ の後、二塁は妻の志に感謝しなが ら、馬の手入れを続け、馬揃えの 日の来るのを首を長くして待ち続 けるのでした。 やがて、その日となりましたの で、一畳はわが身と馬の装いを厳 重に撃えて登城しました。早くも 馬上の一畳の姿と馬が主君信長の 日にとまり、「ありや、名馬名馬、 だれの馬か」とささやきました。 ( 「これは、山内一豊の馬でござ います」と従者が答えました。 信長は、「日ごろ貧しい暮らし をしている一豊が、どうしてこん な名馬を買い求めることができた のじゃ」と言うと、だれかが名馬 を買い求めたことの一部始終を話 しました。この話を聞いた信長は 感激して、「一豊は幸せ者よのう。 見上げた立派な武士じゃ」と褒め たたえました。 一豊は妻の内助の功により、主 君信長からお褒めの言葉を頂くと ともにこのことが出世の元となり、 ご加増され、一国一城高知城の城 主となって後世に名を残したとい うことです。 私が昭和56年に四国一周旋行を したとき、バスガイドの井上寿子 さんがこの話をしてくれました。 一畳の内助千代婦人の夫を思う 心とへそくり上手の心は、故事に ある「虎は死して皮を留め、人は 死して名を残す」に符合するもの です。何百年前の昔のことが、今 もなお地元の人々の話の種になっ ていることは、正に三見夫婦は幸 運を得たと私は今更ながら思って いるところです。 以上、私が感動Lたことをお話 しましたが、これからのことが私 のポケ防止や長寿の秘けつとして 私を支えているのではと思ってい ます。 ここで、山内一豊とその妻千代 について簡単にふれてみましょう。 山内一畳(1546〜1605〉 は、天文15年から慶長ュ0年までの 金沢兼六園の旅での栗林さん
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