広報じょうほく No.438 1998(平成10)年 11月
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古内から県道を小松寺に向かつ て行く途中、左側に少し跨等 に高い山がある。それが弘法山と 呼ばれている山である。なかなか 急な参道で、皿メートル位はある だろうか。それを登って行くと、 かなり広い平らな山頂に出る。 山頂の左側奥には、弘法大師 (m〜響空海の尊称、平安時代 の僧、真言宗の開祖)の石仏や子 古内に現存する弘法石仏 ■ 安観音、供養塔、庚申塔、行者の 祈願成就の碑等が建てられている。 また、山頂の右奥には、山を割 、 . その中に廃仏像が安置されている。 ふ一てらい なお、広場中央には、御手洗の 池がある。この他は不思議なこと に、山頂でありながら、年中水が 枯れたことがないのである。昔は みんなで生涯学習 ヽ ~私の生涯学習~ 学習紹介◎ 好 鉦 藤 加 多くの参詣者に利用されたに違い ない。 ころ だいどう 頃は昔、大同年間(約1000 年前一、弘法大師がこの地を通り かかった。しばしの休憩と山頂に 登られた。ここは東に大海原を眺 め、西に嶺山を望む、まことに良 い地形と思い、地方の安定と修業 者たちの道場として、この地に館 を建てたという。これが弘法山浄 光寺であった。 ごんげん 現在も、この周辺の地名が権限 さあかんのん 沢、観音山、東山、東山下、前峯、 にLかいり 岩谷堂、芝壕、西ケ入等々、弘法 山を取りまく地名があるのも、当 時の隆盛を物語っているといえる。 弘法山の例祭は、8月ュ8日であ る。山頂一帯は共有地となってお り、現在も年当番者が定められて いて、祭りごとが続けられている。 この日の午前中、地区総出で、 山頂境内内外の清掃、刈り払い等 を行う。下山するとき、若者が弘 法大師の石仏(約70蜃を背負っ こ、年当番者宅まで運び、この石 仏をお迎えする。 かや 年当番者宅の庭には、新しい萱 かりや で、お仮屋が作られる。その中央 うす に白をかぶせて台座を用意する。 その上に背負ってきた大師様(石 仏〉を安置する。その周りにとう ろうを揚げる。大きな棒を庭に立 て、大太鼓、小太鼓をくくり付け さかな る。仏前に酒肴、赤飯等を供えて、 やっとお祭りの準備が撃っのであ る。 笛や太鼓の昔に合わせて、神楽 や踊りを踊り、夜の更けるまで、 楽しい一夜を過ごす。 そして、信仰と共に民との相互 の絆を深めるのである。 またいぼ㌍弼近在の人々の参詣の 一つに涜神様がある。痍を治す神 様である。 こんな静が残されている。 ある親が虎のできた子どもを連 れて、弘法山に参拝し、神前に供 えてあった小石を一つ借りて帰っ た。その石で、毎日痍の上をさす ると白魔にその痍が取れて、きれ いな皮膚になり、治ってしまった。 喜んだ親子は、そのお礼に清流 の中の小石を一升と借りた一個の 小石を持って山に登り、神様に供 えて全快を報告して帰ったという。 この話を聞いた着たちが、次から 次へと語り継がれて、近県内外か らもこの山を訪ねでくるようになっ ( たという話である。 昔は、子どもたちの手足に痍が よくでき、だんだん増えてくる困っ た皮膚病であった。しかし、今日 では医学の進歩と薬品の開発で痍 も少なくなり、この地を訪れる者 もいなくなっている。 さらに、この弘法山には子安観 音も祭られている。これも石仏で ある。 妊婦が、安産のお参りに山に登 り、供えてある小石を一つ持ち帰 る。それを腹帯の中に縫い込んで、 出産するまで大切にお守りすると、 お産が軽く、しかも丈夫な赤ちゃ んが生まれるという。そのお礼に、 きれいな小石を一升持って、山頂 の観音様に償える等の言い伝えが あり、現在でも、きれいな小石が うず高く積まれている。 小石が神仏の対象となり、神仏 を守り、社を築く、これが昔の信 仰の一つではなかったかと思う。 貧しき着たちの信仰は、小石に 願いを託し、心を満たし、人々の 間に広がっていったものだと私は 考えている。 また、このような歴史的な祭事 等を後世に伝え、昔の語り草など になれば幸いだとも考えている。 更に、生涯学習は「やりたいこ とを自由にやる。ひまを作らない ことだ」と考えている。 広報じようほく
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