広報じょうほく No.431 1998(平成10)年 3月
5/14
第37回常北町「みんなで行う社 会教育の集い」が、2月8日、コ ミュニティセンター常北ホールで 開催されました。今回は、テレビ などで活躍中のタレンし桂小金 治さんをお迎えし、「人の心に花 一命」と題して講演が行われまし た。 小金治さんは、自らの生い立ち や子育ての経験を人情味あふれる 名調子で魅了。家庭のあり方など について考えさせられたお話でし た。 みんなで行う 「社会教育の集い」 「人の心に花一輪L 町社会教育の集い 講演から 井 坂 光 夫 「身心共に健全な子供の成長は、 家庭円満、家族の日常生活態度か ら」であり、社会が、学校が、で はない。人の心に花一輪。前向き に社会や人のため、結果として己 のため、苦しみを乗り準え裔力す る大人の姿をみていれば、子供の 非行は生まれない。と、桂小金治 さんは自分の生いたちから語る。 ○大正15年生まれ。貧乏な魚屋の 子 落語家、タレニノト、司会など 豊富な人生体験に基‾プく感動 的な講演でした ○父は厳しく、1勉強は学校だけ でLと言われ、幼いうちから家 の手伝い。 ○おもちゃが買ってもらえないの で自分で作った。父の草首を努 力して修得し、今、芸として生 きている。 ○母は文盲だが、優しく本を読ん でやると日に涙で喜んでくれた。 ○学校の成績は金甲(昔は、通信 簿が甲・乙・丙・丁・戊)で、 先生の勧めで商業学校へ。違い 道のりを徒歩で、クラブ活動は 道具が買えないので弁論部へ。 ○戦後、焼け残った父の着物で落 語界へ弟子入り。(弁論部が役 立つ) 0父のしつけで、働くことが身七 人の2倍も働き、勉強し、認め られて映画にも出る。 ○落語の弟子時代、師匠から桂小 竹と名付けてもらう。父は喜び、 米屋の作業場の零米を何軒も歩 いてもらってきて、食紅を入れ 祝ってくれた。涙が止まらなか った。(終戦前後、米は極小量 の配給) ○昭和27年、父が疲労、病気で死 亡。 0バラックでの死の間際、父は、 「葬式はやらず、リヤカーで火 葬場へ引いていき、頼んで焼い てもら、え」と。 0師匠に父の死を知らせると、高 さ6尺の小屋に8尺の花鶉が巧 懸命に師匠に尽くしたとはいえ、 涙ながらに深謝した。 ○親の墓、家を建てると決意。今 では3人の子どもを亡き父のし つけを見習って立派に育て、5 人の孫もいる。父母も子供も自 慢できることはうれしい限り。 今、子供に非があっても、親も 学校も殴ることはないようだが、 第一に家庭円満、家庭内でのあい さつの実行。子供には、幼いうち から善悪を教えてしつけることが 大人の課窟と思う。子供は親の背 を見て育つというが、神棚、仏壇 に毎朝手を合わせると孫まで手を 合わせる。 「テレビ放映『それは秘密です』 での涙の対面。800余組の苦し み抜いた人生や生まれながらに障 害をもった人たちは、健常者の2 倍も3倍もの苦しみを乗り適えて 生きている。その人たちを思えば、 自我を捨て、明るい世づくりや子 供の健全な成長を自他の子供を問 わず見守っていくのはなんでもな いこと」。聴衆に涙と笑い、ユーモ アと感動をたっぶり与、え、2時間 はあっという間に過ぎた。 大いに教えられるものがあった。 少しでも藩師の教訓を心に刻み、 実行すればと会場より出た。 寒の水淋しき音のして浄土 井峰雪 たきび 郷愁の焚火の色の赤々と 閑 ち 江 枯尾花屋根に廃寺とは淋し 仲 田 もと子 枝々の影黒々と大冬日 松 本 政 美 信濃路の旅のひととき冬の虹 桐 原 桂 花 もがりぶえ み 母看とるどこかに虎落笛宿し 丹 下 はつ江 ゆず 柚子の香の歯に浸み残る卒寿かな 宇 野 英一 のり 法の炉に許され慈悲を恋ふ旅路 小 野 草菓子 (その〓) 八郷町善行寺(重要 文化財・廃寺)と大覚寺 鉄瓶の湯気のたぎれる冬の寺 美代子 つつ 廃寺となりても志なき冬日 さび 園 部 登美子 広報じようほ<
元のページ