広報じょうほく No.425 1997(平成9)年 8月
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身近な石塚城の話は興味深いと 思った。驚くほど話の種が--史 料も伝承も少ない。根気よく収集、 吟味し話に花さかせるには、力も 時間もない。集めた種を撃理する にとどめる。史実に基づく話では ない。でも、無責任な放談にした くない。肩のこらない駄弁なので 気軽に読んでくだされば有難い。 石塚城跡は、石塚台地北端にあ る。水戸から国道一二三号を北 西に進み、町並の先は天道坂とな 石塚城の議 痴席巻 文.今 瀬 ♯ 次さん 1、概観-遠くから眺める る。この周辺に城は存じた。坂が 尽きれば桂村となる。 東経約一四〇度二二分〜二三分。 北緯約三六度二八分三〇秒〜二九 かしやま 分。海抜は橿山で四七・二メート ル。根小屋低湿地との比高約二五 メートルである。 城跡付近での人間生活は先土器 時代からの長い間、絶ゆることな く営まれてきた。片山遺跡の石刃、 二本松遺跡の石槍は「茨城県史料」 に載っている。片山遺跡からは縄 文各時期の石器類、弥生時代から 古墳時代の遺物が出土していると いう。那珂川にほど近いこの地が、 住むに恰好の地だったのだろう。 橿山とよばれたこの地は魔王石が 飛んできたという石塚地名起源伝 説の地でもある。 かわのべみちまき この地に河蓮三郎通雅が大治元 年〓一二六)築城(堀を据った) と伝えられる。河遽城(川野辺城、 野口城)の城主通重の三男といわ れる。 後、佐竹十代義篤の子宗義が初 代城主となり、石塚氏を称した。 応安二年(一三六九年)ころとい われる。その子孫は代々城主とな ・■▲rしとき った。十代の城主義辰は片野城(現 八郷町)に移った。石塚氏が移っ てからは佐竹一族の東義久が管理 し、その子義塾が城代となった。慶 長七年(一六〇二)の佐竹秋田移封 で義堅は秋田に移り城は廃された。 石塚城は約二三〇年間、佐竹氏 の領国支配の一翼を担った重要な ● 支城であった。佐竹宗家から大事 にされ、宗家に逆うこともなかっ たね た。城主義胤、義衡が、宇都宮、 関山(白河市)で戦死している。 宗家に忠実に尽くし、佐竹家のた めに尽くしている。南北朝のころ、 実戦用に築かれた堅固な山城には 大きな戦闘の詰もない。 廃城となって約四百年。歳月は 住事を語る物を散逸消失させ、人 びとの記憶も忘却の彼方へ押し流 してしまった。 これからはちょっと立ちどまっ ていろいろな視点から見直したい。 叱正、ご括導いただけたら望外の 幸である。 御ン庭に法の二葉の落し文 小 野 草葉子 木 村 朝 霊山の木々の緑の濃く淡く 桐 原 桂 フ (そのニ) 笠 間 阪兼札所めぐり 万緑やみくじの固く結ばるる 丹 下 はつ江 かげ 夏木立包丁塚にある翳り 加倉井 峰 雪 のり 浄めある法の白砂や落し文 園 部 登美子 かわず 風誘ふ大石邸の初蛙 所 美代子 きぎ 天暗し梅雨の兆しの昨日今日 開 ち 江 いちかひ のこ 一歌碑をここに遺して寺若葉 仲 田 もと子 霊山に卯の花白く咲き誇る 弓 野 のぶ子 その那の色すでになし桐窮し 留 ふれあい俳句 花 子 広報じようほく

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