広報じょうほく No.416 1996(平成8)年 11月
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ー、碑建立完成 那珂西二区集落センターの一隅 に沿革砕を建立した。石塚小学校 の分教場として明治25年開校の小 1〜小4までの複式2学級、昭和 36年閉校までの約70年間の沿革概 要を碑に刻んだもの、去る9月17 日完成。奇しくも当日の毎日新聞 に、41年前に廃校になった石岡市 の第三中学卒同窓会が、地域絵合 運動場の同校跡に「母校の歴史碑 に刻む」として写真入りの碑建立 記事が載り、奇遇を感じた。 2、計画の発端と取り組み 本校に合併後の校舎は公民館と して使用していた。昭和62年校舎 所在地の二区中心に集落センター 建設計画の話がもちあがり、物権 は町であり那珂西全体の敬老会等 も実施してきた経過から、那珂西 の四区長で数回打合せの結果、二 区中心のセンター建設の方向でま とまり、その際、校舎解体、旧校 門の建立年月も風化して不明状況 ゆ、え、「碑を建立しては」と話し合 いしたが二区としてはセンター建 設計画が重要課題となり碑の件は 立ち消えになった。当時内々の話 が10年近く過ぎ、他の人からちら 回旦那珂西三区井坂光夫 70年の分教場沿革碑建立 ほら各区に顕在化してきた。その ため当時の区長、現区長8名で数 回打合せし、住民皆様の賛否伺い (回覧)後、8名が発起人となり、 具体案等自治長の方々の協力を得 て回覧し、取り組みをしてきまし た。 3、町、教育委員会、業者への 手配 取り組みに際し、町に許可願い、 設置場所図提出、教育委員会、小 学校等の意見を聞き、お願いした 長谷川石材店様にもたぴたびの設 計変更、金額的にも協力をいただ いた。 4、予想以上の寄付寄せられる 今年4、5月にかけ再度趣意書 関係書類を添付し、在校当時から の居住世帯を主に無理のない様、 寄付額いをしたところ、地域性、 区、自治会の取り組みの差異から 各区均一ではないが、在校暗から の自治会巧274戸、開校後設 立自治会17、214戸(町営住宅 室戸含む)の状況から345戸よ り、即ち後者の世帯からも多くの 戸数から、そして篤志寄付を併せ て70万余円の寄付が寄せられまし た。 ( 5、碑文について 昭和19年から35年まで長期にわ たって勤務された寺門鉄先生が、 分教場の歴史資料をまとめておら れたが、終戦時焼却されたとのこ と。(当時は占領軍の行動仕打ちを 考慮し、国内全域戦前の諸資料処 分の例多い) 三区在中の丹下保氏(現水戸市 立石川小校長)が戦後早く、寺門 先生や一部残された資料、高齢者 からの聞きとり等からまとめられ た資料を主に、石塚小の資料等か ら抜粋成文、三区在中の住谷晋氏 (現県立那珂高校教諭)等の意見 も聞きまとめましたが、もとより 文盲の上、限られたスペース、間 違いは許されない石刻み、修正も 何回か、十分とはいえないが特徴 も、つら 点は網羅できたのではないかと思 っています。 6、沿革の特異な特徴事項例 ○ 大正12年頃卒業篤志家の校内 文庫設置は当時として珍しい。 ○ 昭和6年、3、4年生本校合 併、町議々決には小2〜高3全 生徒の1か月余の同盟休校、代 表16名連盟の県への反対陳情、 反対大会には自由公論社の応援 演説、瀬谷貴族院議員、県議員 等の調停による解決、ただし2 名中1名教師の人件費は1年分 那珂西集落で負担条件。 ○ 戦時中の校庭畑化、校舎への ちゅ・つゝしん 軍の駐屯等々 7、まとめるにあたって 規模の大きい碑で、住民の寄付 のみによる完成を住民、関係者に 対し発起人一同心から御礼申しあ げます。まとめる過程から明治時 ( 寒中雨 砂利道素足で 日の丸弁 抱え擦り下駄 凍り田を下駄で滑って けんか 喧嘩して 駆けて笑って 代の教育法の一端、飽いろいろ勉 強になりました。町広報関係より 「広報掲載して」と話があり、拙 文も省みず御礼と報告とし述べさ せていただきました。 井坂光夫さん 昭和62年から8年間、那珂西三 区区長、地区公民館長 現在、青少年健全育成常北町民 会議副会長、石塚学区区民の会全 長 昭和初期小学低学年時代を 回顧して 那珂西分教場 昭和7年入学生 光夫 や 学びへ 給 冬餅 笑いこけ 夏休み 広報じょうほ<
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