広報じょうほく No.411 1996(平成8)年 6月
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久金根 多下す 佐 し 佐 と こ と 権 て (愛宕大権限の由来、頓化原保良 佐久合戦のこと) 三つ 一体、愛宕大権限と申し祀るの は山城国(京都)の愛宕山に建っ た。石塚出立は八月二十二日、大 将は小場三河守と城之介。したが う侍四盲人ほど。春園宗田坂を過 ぎ、八幡館を通過して頓化原に押 寄せた。 こ 守 さて、大山義勝は一旦敗退とは いえ、再び打って出るものと小場、 石塚の両将は考えた。このうえは、 鋭j戌 く に る 竹 て 竹 さ の し 限 い 珠 の の も よ 一 久 の れ大 て の る 玉商 人 愛 う 族悪党武権尊本神 ー) の一 戦 で な く 山大高 れを落とすことの方が良策とし ナ とっ はら 頓化原の合戦 その⑤ 寺 を に か 宕 に は 部祖 人 限信 地杜 で用 愛 ら 権 な 居 久う原 の に さ 仏 が あ い 宕尊 限 つ城米 昌 尊祈 れ は 本 、山敬 を た 守郷義敬 れ る 勝社 0 瓦 の き 勧 護 に 公が ば地 軍 で ぶ霊 れ講大神建が あ 必蔵 地 あ き場て し山 と て都?ず蓄蔵る い′tユ =トF- J _ ○ 。 る。 大山城に押寄せ、 愛宕大 甲;㌍\-て、し’かか戦薩で 寺 あ た ま 孫 て そ ら つ に で は り つ 根勧 の 勧 た 勝 あ ’ 0 佐 孫 り 城詰後詰 っ る 軍神 これを迎える大山氏は平治ケ館 出丸城に高久播磨、保高平治、徳 宿蔵之介、田代遠江、清水大内蔵、 加藤木弾正忠澄、大座畑六郎太郎、 同孫五郎、富田兵庫之介、冨田修 理之介の大将方十人、士卒六十余 名がこもり守っていた。また、孫 根の大高寺には高須右馬之介、三 村肥前守光盛、.高館通斉、三村豊 後、平沢源太郎、小堀五三郎、飯 村出雲、同左馬之介、宍戸馬之介 らその数合わせて二十騎が境内に 潜んでいた。 そのことを知らぬ小場勢は大山 城目指してひた進んだ。小場勢の 先鋒石桐藤兵衛忠光は大高寺に近 づいた時に伏兵に気づいた。「こ よいの空気は不安定である。この 辺に敵の伏兵がいるらしい。雁が 列を乱すと兵書にあるが、このよ うに大気が乱れているのはこの寺 の中に敵が潜んでいること間違い なしノと言い、火を放って寺を焼 き払うよう命令した。忽ち大高寺 に火が放たれ、猛火は炎を天まで 舞い上がるという勢いだった。 この燃え上がる炎の中に現れた 武者がいた。一体誰なのかは誰も 知らない見なれぬ考白旗三十旅 (本)ほど押立て、大将らしい武 あLげ 者は葦毛の馬に金色のくらを置き 赤地錦のひたたれに排(あか) の よろいを着け、くわがた打った金 の竜の頭の飾りの着いたかぶとを ひ かぶり、しげとうの弓を持ち、馬 をここと思えばすぐあそこと乗り 回し、数万騎かと思うほど身を変 え、矢を雨のように射かける一団 である。これには、さすが勇猛な 石桐勢も進むことできずにたじろ いだ。石桐が少し退いた時に、猛 火の中から三村肥前守光盛が「や あやあ石桐殿、引返して勝負しよ うノと叫んだ。石桐藤兵衛は引返 痴 文.今 瀬 義 次さん つ そうとしたところを三村光盛が強 い弓に長い矢をかけてひゅっと放 した。ねらい違わず矢は石桐の胸 の真ん中を射通し、石桐はあっけ なく馬から逆さまに打落とされて しまった。 まっ先かけて進んだ頼みの石桐 忠光が討死に力を得て攻めたてた。 小勢の敵にたじろぐ小場勢を励ま して小場の家臣山田専之丞は怒っ て「これは何としたことか。敵は 小勢だ。我等は小場を出てから、 たとえかばねをさらすとも一歩も 退かないと決心していたのではな いか。皆の者、俺の後に続け、共 に進もうゾと叫んだ。山田におく れまいと前小屋高次、斉藤を始め 多くの者がしたがい激しい戦がく りひろげられた。 日はすっかり沈み、真っ暗にな った。この時、平治ケ館出丸城に たてこもっていた高久、田代、保 高の一族や徳宿、清水、大座畑、 富田、加藤木、高堀その外六十余 人が門を開いて東リ出した。小場 勢は取りまかれ、前後から攻めら れた。しかし、さすが勇将、勇士 のほまれ高い小場勢。ふみとどま ほらきくや って戦い続け、頓化原保良佐久谷 津は勇士の流す鮮血で紅となるほ どだった。折しも霧深〈、よろい も旗も敵か味方の見分けがつきに くくなった。大山軍の大座畑六郎 太郎、同孫五郎らが三人張の弓で さんざん矢を放ちまくった。小場 勢も少しひるみ退き始めた。この 時に山田専之丞は所孫五郎、久野、 阿久津の三人に取巻かれた。山田 は保良佐久谷津を一町(約百十メ ートル)くらい逃げた。弥五郎は 山田を追いかけて弓を射ると専之 丞のうちかぶと、首の間に命中し た。剛勇山田専之丞も急所を射ぬ かれてバッタリと落馬してしまっ た。阿久津信濃が寄って首を打ち 落とした。 小場・石塚両軍の兵の討死は多 く、大将三河守も勇気をくじき石 塚城におちのぴてしまった。桓化 原はしかばねるいるいという有様 だった。石桐藤兵衛、黒沢小太郎、 山田専之丞、同新右衛門、線引藤 八郎、猪野左太夫、小林平六、大 名保喜八、小松軍兵、羽生縫之丞、 斉藤重太郎をはじめ二百余名の勇 士が頓化原の土となってしまった。 惜しいことであり、残念な戦いだ った。さて、一方の大山勢の勇士 はこの戟に勝利を得、石塚城合戦 の恥をすすいだ。これも愛宕大権 限のお陰と以前にも増して信仰を 深めた。 9 広報じょうほく
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