広報じょうほく No.401 1995(平成7)年 8月
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投稿 「戦争と父」 私が初めて就職したのは、昭和 19年4月(14歳)の毛織会社でし た。同じ郡から4人と同級生が4 人の計8人でした。 寄宿舎生活で、同級生4人が同 じ部屋。仕事は毛布の芯を作る作 業でした(線ばこりがものすごか った)。入社した時は、まだ戦争も そんなに激しくなく、食事は大き な食堂で寮ごとに分かれて食べて いました。ごはんはどんぶりに盛 ってあり、みそ汁は桶に入ってテ ーブルの上に置いてあるという具 合です。 半月くらいしてから同級生が、 いやだから家に帰りたいと言い始 めました。でも、私は戦争に勝つ まではがんばるようにと父に言わ れてきたので、ここで帰ってしま ったらと思うと踏み切れませんで した。今でも忘れられません。あ さってが天長節(現在はみどりの 日)という日、同じ村から一緒に きた同級生3人が許可もなく帰っ てしまいました。あわてたのは私 の家です。4人も有って、3人も 逃げてきてしまったとは。天長節 に父が革もちをもって面会に釆ま 石 塚 主 婦 した。その日は工場が休みだった ので、慰問団が釆て芸を見せてく れました。父は、「こんな楽しい事 があるのだから大丈夫、がんばる ようにLと帰ってしまいました。 それから、同級生の1人が会社へ 戻ってきましたが、またすぐ帰っ てしまいました。でも仕方ないと 工人でがんばっていました。その 頃にはほかに友達もでき、楽しく 過ごしていました。 10月のある休日に運動会があり、 その時はじめて警戒警報がありま した。それからはひんばんに警戒 警報、空襲があり、1日何回も防 空ごうに入るようになりました。 その防空ごうは片方から入るよう になっていたため、行き止まりに なっており、入った方から焼夷弾 でも落とされたらと思うとぞっと するようでした。夜も何回も起こ され、落ち着いて寝たおぼえはあ りません。ちょっとでもサイレン の音がすると目が覚めてしまい、 「危いから起きて′起きて′」と 騒ぎたて、先輩たちに怒られた事 もありました。実家の方でも飛布 場ができていて、こちらも怖い様 ′l 子でした。家には父母と姉がいま した。兄は私の近くの部隊にいて、 2固くらい面会に来てくれました が、その時は、もう嬉しくて嬉し くて声が出ませんでした。 食事も日を追うごとに悪くなり、 大豆の入ったごはんが出るように なりました。その大豆もパキパキ として煮えていなかったり、また、 夕飯にはさつま芋2本などと言う 事も度々ありました。大豆のご飯 などは食べるとすぐ下痢をしてし まい、育ち盛りの若者たちがそん な食事ばかり食べていたものだか ら、目ばかりぎょろぎょろとして、 体のふくらみなども全然なく、そ れはそれはひどいものでした。 3月9日の東京大空襲では、東 京に近いこともあって私たちの会 社にも焼夷弾が落とされ、毛織会 社だけに材料へ火がつくと、何日 もくすぶっていました。その後広 島、長崎と原爆が落とされ、どう することもできずに敗戦…。 会社からは、平和産業に切り替 えるから、これからもぜひ働いて ほしいと言われましたが、戦争に 勝つまではとがんばったのだから と父が迎えに釆て…。 戦後50年というけれど、思い出 すとつい最近のように思われます。 今の平和なせの中、本当に幸せな 世の中です。 問の事務所が 移転します 町教育委員会 町開発公社 常北地域土地改良区事務運営協議会 2.旧常北歯科診療所(石1家栄町)へ移転 する団体 常北町社会福祉協議会 県の農業改良普及所の統廃合に伴い旧常北 地区農業改良普及所を町で払下げを受け、役 場分庁舎として利用することになりました。 それにより、下記の行政機関が移転すること になりましたのでお知らせいたします。 l.分庁舎へ移転する行政機関 TEL 288-7010㈹ FAX 288-7 0 0 6 広報じょうほ< 1
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