広報じょうほく No.394 1995(平成7)年 1月
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■大久保京子さん 退任されました川又次男さ んの後任として、上入野の大 久保京子さんが、12月6日付 で厚生大臣から委嘱されまし た。 大久保さんは、主に児童関 係専門の主任児童委員として 活動していただくことになり ます。 これからのご活躍をご期待 いたします。 新民生児童委員に 大久保京子さんが 委嘱されました 日本赤十字社では、表彰規 定により献血協力者(平成5 年度分)を表彰しました。 常北町では、次の方々が表 彰され、温かな心の贈り物が 多くの生命を助け、その家族 に大きな喜びをもたらしてい ます。 (以下敬称略) ◎献血推進者 ・城北ライオンズクラブ (会長 久野 輝雄) ・大森 勝(石 塚) ◎献血者 ▽献血150回 渡辺 功(春 園) ▽献血50回 息蔵 良夫(上古内) 大津 俊一 森田 宏二 大津 清一 ▽献血30固 丸山 英明 高野 勇 一木 邦彦 献血協力者を表彰 武井 克彦(石 塚 ( 〃 ) ( 〝 ) (那珂西) (下古内) (那珂西) ( 〃 薬師堂は、大同2年(80 7)に坂上田村麻呂が奥州征 伐の時に泊った石塚に、国が 平和であるようにと願って建 てた。その頃の大工の名人と ひだのたくみのかみ いわれた飛弾内匠守(頭)藤 原正親に建築を命令した。大 工として哉も光栄ある仕事を りっばになしとげようと正親 は懸命 お寺にかかわる話⑧ 薬師堂を建てる時の話 - 大エの名人と美女 - 毎感轟轟 文.今 瀬 義 次さん に 建 集 に 励 ん だ そ の 努力のかいあって順調に仕事 は進み、いよいよ上棟の日の 前日になった。ところが、ど うしたことか、名人にもあや くい まちがあり、杭を3尺(約1 メートル)ずつ短かく切って しまった。これはとんでもな い失敗をしてしまった。どう しょうと息案しているとどこ からか突然正親の目の前に美 しい娘があらわれた。びっく りしている正親に娘は近づき 「私は佐野と申します。さっ きから思いなやんでおられる ようですが、そんなに思いな やむことはありません。3尺 のげたをはかせればよいでし ょう〕と言った。正親は「な るほど、そうする外あるまいぃ とひとりごとを言って円柱に げたをはかせ・3尺柱の下の部 分を高くした。 正親は、このことが世間に 知れると名人といわれる自分 にとってこの上もないはじだ。 このことを知っているのは佐 野という娘だけ……佐野を殺 してしまえば誰にも知られま いと思った。娘の佐野は、正 親がどう直したかを見るため か再び現れた。正親は、佐野 に切りかかり殺してしまった。 ところが不思議にも、佐野 の首は北東へ飛んで行った。 また、もも足は南西の方へ飛 きもん んでと言い、南西の方は裏鬼門と 言い災難が出入りする方角だ。 正親は後悔した。あの佐野と いう美しい娘はただの女では ない。薬師の如来が娘に姿を かえて現れたに違いないと思 い、薬師さんをいよいよ信心 し、つみほろぼしと薬師堂の 建築に身も心もささげた。上 棟の時には、この鬼門に向か って災難が来ないように矢を つがい合わせてあげることに したという。 じ▲うるい ここの薬師堂は後に浄瑠璃 こう・じ 光寺とよばれるようになり、 その跡地に今の天台宗薬師寺 が建っている。 (主に「常陸古来記録」より」 癌報じょうほ<

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