広報じょうほく No.393 1994(平成6)年 12月
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お寺にかかわる話② 小松寺の開山 しげもりさだよし - 平重盛・貞能の話を中心に - 小松寺は平貞能の開山と伝 えられ、平重盛にまつわる話 で有名である。小松寺の寺伝 からそのあらましを述べる。 平清盛の長男内大臣平重盛 は、忠孝両全の立派な人であ った。治承3年(1179) に熊野詣をし、5月に出家し て「浄空」と称し、諸国にお 凝感轟轟 文.今 瀬 義 次さん 寺を建てる祈願をたてた。重 盛の仏教信仰は若い暗からで 自分の部屋に12の仏像を安置 とうろう し、仏像ごとに灯籠を供えさ せたので、世の人は「灯龍夫 臣」と言ったほどである。多 くの人から信頼され尊敬され ていた重盛は、惜しくも治承 やくどし 3年の夏に42歳の厄年で病死 してしまった。 栄えていた平家一門も、こ の頃から急に衰えてゆく。源 頼朝が重盛の死の翌年の治承 4年には伊豆で兵をあげ、源 平の合戦の時代に入った。平 家は源氏に敗れ、文治元年( 1185)には滅亡する。乎 けにんひごのかみ 家の家人に肥後守貞能という 人がいた。貞能は源平の争乱 の時に高野山の重盛の墓から 遺骨を掘り出し、垂盛夫人の そうおういんとくりつぜんに 相応院得律禅尼らと北陸をま ともつな わり、下野の宇都宮朝綱を頼 って塩原にかくれた。平貞能 Ⅳ、 は宇都宮朝鋼を訪れて山の中 寧つヒ上う にかくれて往生をとげたいと 願った。朝綱は前には平家の 京番役で、平貞能に世話にな り、また、源頼朝とも親しか いのちご ったので頼朝に貞能の命乞い をした。頼朝は朝鋼の願いを 聞き入れて許した。 当時の筑波山は平家とゆか だいLきったいらのよLもと りある常陸大操平義幹の領地 だった。平貞能は朝楓に願っ て塩原をたち常陸国に入った。 初め筑波山がよいと思ったが 許されなかった。だが義幹は 次男の盛昌に案内させて、那 珂都入野郷に寺をたて住むこ とを許した。この地は義幹の 土地だった。貞能は高野山か ら分骨した平重盛公の遺骨を 自書山の中腹に埋葬し、五穀 の墓標をたて供養した。そ⊥ て髪を切って僧になり「小松 房」と称した。かつて平重盛 の守本尊であった如意脊観世 音ぽさつを安置して七堂がら んをたて開山した。このよう にして、乎貞能すなわち小松 いてん 以典が小槍寺初代住職となっ た。 重盛夫人の相応院もこの地 任期満了により、9月30日 付けで退任されました教育委 月長大畠耕夫氏の後任として、 教育委貝小山光雄氏(鰭歳) が10月1日付けで新委員長に 就任されました。 小山さんは、長い教員生活 を退職後、文化財保護審議会 委員、心配ごと相談月等の公 職にも就かれており、こうし た優れた識見、豊かな経験を 生かし、本町教育行政の発展 に尼寺を建て、重盛の冥福を 祈り69歳でなくなった。小松 房(平貞能)は建久9年(1 198)2月13日に89歳でな くなり、重盛夫人の墓近くに 埋葬された。義幹の次男盛昌 も小松房が主人重盛に対する 忠義な心に感動して出家した。 そして盛昌法師と称し、小 松寺二世となり、寛喜2年 教育委長の人事 教育委員長に 小山光雄氏就任 ′\ (1230)に72歳でなくな った。小松寺に現存している 毘沙門天像はこの盛昌法師の 守護仏と伝えられ、「小松盛昌」 の銘がある。 (主に「小松寺縁起」による) 訂正とお詫び 前号タイトル中、行器の話 は、行基の話の誤りでした。 訂正してお詫びいたします。 (広報係) にご活躍されますことを 心からご期待申し上げま す。 広報じょうほく

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