広報じょうほく No.363 1992(平成4)年 7月
10/14

ますが、いつの時代にも、良 い事に、古いも薪らしいも無 いはずです。 更に文部省唱歌に「朋友」 というのがあります。 たがいに励まし良きに進み 共々こらして悪しきを避く る これこそ真のただしき友よ これこそ真のただしき友よ 更に二番には 憂きことあるときともに憂 え 楽しき時にはたがいに楽し む これこそ真の隔てぬ友よ これこそ真の隔てぬ友よ に到っては温い家庭から、 一歩外へ出てのお互いの教訓 を、この唱歌の中に生かして 苦楽を共にし、知らず知らず の中に人の道を会得している のです。この文部省唱歌「朋 友」の精神、真の正しき友同 志が集い合えば、犯準非行 等という字は、そして言葉は 辞書から自然に消える事でし ょう。夢のない生活、これは 正に恵之の温床となることは 必至です。 この様にして文部省唱歌に は夢がありました。現在の子 供達に「憂きことある時、と もに憂い、楽しき時にはたが いに楽しむ」などという思い やり、美しき気持ちが果して あるのでしょうか。 終戦記念日に思う 上人野 猿田 正一 今年も、終戦記念日が巡っ てきます。 あれから四十七年、心に残 る戦争の傷跡は深いが、戦争 体験者の老齢化と戦争を知ら ない世代が多くなり、その記 憶は年月と共に遠くなってい きます。 しかし、今日の平和と寮栄 は、かつて祖国のために柱石 となった幾百万の人々や戦後 の混乱と難局を克服した当時 の国民の血のにじむ労苦の上 に築かれていることを忘れて はならないと思います。 //し 私は、昨年鹿児島県の特攻 基地だった知覧飛行場跡を訪 れ、特攻隊員の劇撃の折りに 書かれた遺書や遺品、その他 の資料を展示した資料館を見 学しましたが、すべての私情 を断ち切って短かい青春を終 えていった特攻隊月の心境に 想が走って、兵科は異っても 同じ戦友として感涙にむせば ぎるを得ませんでした。 特攻隊員は、学徒出陣者が 多く、年齢十代から二十代の 前途有能な四八七名の若者で、 激烈な沖縄の決戦場に散って いったのであります。この栄 光のかげに、悲痛な心境を乗 り越えて出撃していったとき の、特に心を打たれた記事を 記してみたいと思います。 その一知覧基地に民間人 が飛行場に近づくのを厳しく 禁じていましたが、特攻隊貝 の方々が苦心して出撃の日を どうやって家族の方へ知らせ 訂ことができたのでしょうか。 ある日のこと、搭乗したば かりの特攻隊只のところへ息 せききって走りよる初老の男 の方がおられました。二言三 言言葉を交してから着ていた 羽織の紐をもぎ取ると隊員に 差出しました。二人は、固く 手を握りしめたまま、身じろ ぎもしないで、思いをこめた 眼差しを交していました。そ の様子からその男の方が隊員 の父上であることがわかり、 胸があつくなりました。 やがて、羽織の紐を乗せて 特攻機は飛立ちましたが、機 影が空の彼方に消えたあとも、 乱れた羽織姿のままで南の空 をいつまでも見つめながら伯 然と立ちつくしておられまし た。 親子の「きずな」を羽織の 紐に託して、永年の別れを告 げられた情景に、思わずもら い泣きをしない者はいません でした。 その二 見送る人々の中に、 夫婦らしい二人連れが集結す る特攻機を、真剣な眼差しで 追っていました。婦人は、誘 導路から滑走路に向っている 特攻機の一機に深々とおじぎ をしていましたが、突然五、 六番目の飛行機から赤色のテ ープが投げられ、これに気づ いたご婦人は、持っていたパ ラソルを開いて大きく左右に 振りました。飛行帽を冠って しまうと誰であるか見分けが つかなくなってしまうので、 テープが目的だったのです。 特攻機は、テープを引きづっ て出発点に並び、地上滑走の あと、やがて飛び立って行き ました。左右に大きくゆれる パラソルを振って見送ってい た二人は▲、息子さんを訪ねて わざわざ東京からかけつけて きた御両親だったのです。飛 行機が消え去ってからもお二 人は、その場にたたづんでい つまでも離れようとしません でした。 これは、別離と哀切の特攻 基地の二つの記事ですが、そ のほか、中国大陸で南の島や 海や空で数多くの戦死者、そ して連日連夜の都市の空襲や 原爆で多くの市民が犠性とな ったこの悲劇を、二度と繰返 さないよう後せに語り伝えて いかねばならないと思いまま そして、平和と繁栄がいつ までも続くことをこいねがう ものであります。

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です