広報じょうほく No.359 1992(平成4)年 3月
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まちの復興に 子供たちが動く 戦後の混乱がまださめやら ぬ昭和21年、そして22年と、 飯田市は大火に見舞われ、市 街地の約8剖を焼き尽くして しまいました。そこで、市は 今後の火災の事態に備えて、 があります。 いま、このまちを訪 れる人は、まず美しく 続くりんご並木に目を 奪われるはずです。 そして、朝夕に、ほ うきを持った中学生た ちが、街路の清掃をし ている姿にびっくりす ることでしょう。 これには、次のよう な小さな物語が秘めら れているのです。 長野県を縦断する天竜川沿 いに、人口9万余りの飯田市 日本ふるさと塾主宰・萩原 茂裕 市街地を東西南北に貫く幅25 メートルの広い道路をつくり ました。まちの復興に、一生 懸命に立ち向かう大人たちの 姿は、子供たちの心を知らず 知らずのうちに動かしました。 飯田市にある東中学校の生 受け継かれている 人を膚頼する心と活動 ぐ ヽ 1 1 生徒がりんご栽培の 研究と育成に着手 さっそく、生徒たちの手で 緑化部がつくられ、りんごの 栽培の研究からスタートし、 苗木の育成に取り組みました。 そして、1年後、亜本のり んごの木を植えました。生徒 たちは交代で、雨の日も嵐の 日も、りんご並木の〝お守り〞 を続けました。 徒たちも、自分たちに何かで きることはないかと考えまし た。「街路樹にりんごの木を 植えようJ学友会(生徒会) で、意見がまとまりました。 学校側でも賛成し、生徒た ちは、市役所に陳情にいきま した。しかし、「中学生の手 では不可能だ」などの理由で 断られてしまいました。 それでも生徒たちはあきら めず、再度の陳情で、とうと う助役の心をとらえたのです。 しかし、りんごの木は20本 しか生き延びませんでした。 生徒たちは、また木を植え ました。その努力が報われ、 昭和30年春、49個の小さな実 をつlナたのです。秋になり収 穫も近づいてきました。 ところが、りんごの実は10 個減りと、とうとう最後は、 たったの5個になってしまい ました。心ないだれかが、次皿 みとったのでした。 しかし、〝りんごの実をと らない、美しい心をもつ市民 がたくさん住むまちをつくり たい〞-生徒たちの人を信頼 する誠実な心と活動は、しつ かと受け継がれていきました。 いま、飯田市の大通りの真 ん中に、約四官メートル、り んご並木は、30余年の風雪に 耐えてどっしりと立ち並んで います。 そしていまでは、りんごを 盗む者はだれ一人としていま せん。たわわに実るりんごは、 このまちに住む人々に、ふる さとを愛し、お互いを信じ合 うことの尊さを、無言のうち に語りかけているようです。 ′■\ さ と (雪の那珂西神社写生) かつまナ 雪を掻く夫を老へしと思う今 永 山 綾 乃 朝 えばこうもとりかな 大雪に餌箱埋れて烏哀し 小 堀 林 三 しず いっきいあか 鎮もりて神の一切雪明り 猪 野 はるい 鎮もりしか厳割前舞ふば安 藤 美恵子 はらも人 しつる雪払ひて門を入り来し 森 島 保 子 いちがん 一顧のありて神訪ふ雪の中 須 江 君 子 いっさいつつ 一切を包みて神の雪まぶし 鈴 木 幸 子 なご 庭を掃く名残りの一つ蕗の茎 川 又 文 江 あぜやきほほあかあか 畦焼の頬紅々と老夫婦 所 美代子 くさやきびより やまあい 山間の今日を革焼日和とも 竹 林 静 子 のりかぎみなんてん 法の池飾りて赤き実小 山 静 すそ 畦焼の煙のびゆく山の裾 千 里 ふれおい俳句 香 広報じょうほ<

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