広報じょうほく No.309 1988(昭和63)年 5月
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常陸の国上泉村(現常北町上 泉)に新百姓の宗兵衛・宗書の 親子が住んでいた。新百姓とは 他の地から流れ来て村に居つい た者を冶す。父の宗兵衛は、隣 国下野より釆た逃散着てぁる。 r■■‾‾-‾〒 ヽ I l ヽ \ ヽ ヽ ヽ l l ヽ ヽ ヽ ヽ \ ヽ \ ヽ ヽ 輸 ヽ 叫 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ \ ヽ 叫 l \ 廿 \ \ ヽ ヽ ヽ l \ 旬 勺l . 夫 妻 天 調 の霊よ安らかに曇 上表に供養の墓石を建立 上泉組頭与右衛門の情で二反程 の畑を小作させてもらい、住み ついた。 宗兵衛は中風で半身不随、百 姓は二十二歳の宗吾と、四歳年 上の嫁アサとでやっていた。ア ▲読経のあと区民総出で焼香し,夫妻天狗のめい福を祈った サは捨子で、 与右衛門が 養って育て、 卑女として 使っていた が年も重ね 宗育と夫婦 にしたので あった。夫 婦仲はよく、 やがて男の 子を出産、 片根山の山 裾の藁屋は、 大きな笑声 のする毎日 が続いたの であった。 この平和 な家に突如 〔 不幸がおそった。文久三年(一 入六三年)一月二十日、宗兵衛 の嘉屋から出火し藁屋をやきつ くし、不幸にも宗兵衛は焼死し てしまった。 赤子を抱えた宗富夫婦は無一 文となり、乞食同然となって与 右衛門の情の莱でその日その日 の飢えをしのぐのだった。 その年の二月、成澤村にある 加倉井砂山の日新塾に学ぶ藤田 小四郎らの命をうけて、同門の 鈴木信歳が擾夷の旗上げをする 天狗党の軍兵募りに上泉村を訪 れたが、平和な上泉村に誰れ一 人応ずる者はなかった。しかし 宗富夫婦は、食わせてもらえる のならどんな苦労もいとわぬと これに応じ、夫婦共々軍に従う こととなった。 宗書は小四郎の従者となり、 アサは兵穐方として赤子を背負 ▼建立された墓石 って立ち働いた。 文久三年十二月十日、天狗党 一千の兵は京都に榛東の奉告を すべく西上の途上、越前(福井 県)新保宿に達した祈り、水戸 一橋慶喜が天狗党を征伐せんと 出兵させるを聞き、首領武田耕 雲斉は主君に刃向う剣はないと 加賀藩に降伏を申し出た。 宗書は、藤田小四郎の小者と して本勝寺に囚われたが、女房 アサは、乳児連れの女人である 放か、敦賀の町名主大野屋惣右 衛門方に一時預けとなった。 天狗党への処分も決まり、宗 昔は小者放水戸送りの処分とな り女房アサは構えなしと無罪放 免となった。 四月十一日、水戸送りの天狗 党召人が出立すると聞き、アサ は安堵とともにこの行列を追う べく心を決し出立したが、深坂 時の難所の頂きでついに倒れ、 道端で七転八倒の未、冷たい骸 となってしまった。現在の急性 腹膜炎であろうか。折よく通り かかった趨前永平寺の行脚僧敏 信により木ノ本宿の北専覚寺に 葬られたのである。 水戸に送られた宗青も、慶応 元年(一八六五年)六月十四日 赤沼の獄(現水戸市東台二丁目) ′-\ で病死した。(水戸市大塚町出 身・常陸郷土史研究家・安蔵勉 氏著・水戸天狗党異聞抜すい) 幕末、天狗党と書生派の争い のとき、書生の旗頭であった先 代をもつ、上泉の小原 叶さん は「私たちの郷土上泉に、寓か い期間ではあったが在住し、幕 末の争乱により、他国の地で薄 幸な生徒を終えた1宗書・アサ 夫妻Lの霊をとむらうペく呼び かけ、上泉全区民の協力のもと 去る四月十七日、宗青天妻の住 んだ片梶山の薬師寺近くに墓石 を建立しめい福を祈ったもので す。 国保税の納税相談日 毎月1日-10日まで (土曜の午後・日曜・祝日は除く) 保険税は 納期内に納めましよう 広報じょうほく
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