広報じょうほく No.294 1987(昭和62)年 3月
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元来宗教上から出発した免囚保護会等においては、経営者個人の慈善救済という観念が、刑事政策を考え違いさせるような事態がたびたび起こることもあって、社会一般からの評価は必ずしもよいものではなく、かえってこれがため終え、解団式が行われた。|しかし私たちにとってこれは、終わりではなく始まりであるa約半年がかりの全研修で得た多くの貴重な経験を、それぞれ自分の地域や職場で積極的に生かすことが「青年の船」本来のねらいであると思うからだ。四百四十八名のすばらしい仲間とともに、大きく前進していl穐別寄蔑I更生保護⑥県功労保護三今瀬敏一にこの事業を阻害している感さえあったのでした。そこで免囚保護会ではハ不具者やその他の困窮者等に対する慈善事業から、はっきり区別するために免囚保護事業を司法保護事業という言葉にかえ、免囚保護を廃止して釈放者保護と呼ぶこととしたのでした。すなわち、不具者や貧困者その他の困窮者等に関することは慈善救済であって、免囚保護会等におけるものは刑事政策的な保護事業なのです。そしてこの釈放者保護事業も少年法の整然たる組織運営に刺激されて急速に軌道に乗るようになり、組織も全国的に及ぶようになり一応の整備を見たのですが、依然として資金不足に悩んでいました。きたいと思う。ゞ最後に、私たちが「青年の船」に参加するに当たり、町から多大なる補助と激励をいただき深く感謝申し上げたい。この貴重な体験を基に、常北町に住む一青年として立派に成長していきたいと思う。今後とも、よろしくお願い申しあげる次第である。そこで民間の関係者峰.これ以上政府の考えには頼れないとして単独で国会議員に働きかけ、司法保護法案なるものを国会に提出したのでしたが、予算上の問題で二回も審議未了となり不成立に終ったことは誠に残念でした。しかし、そのうちに中央当局の積極的な指導によって、昭和十年から約八年間に少年保護と成人保護両面で画期的な整備をみたのでした。このようにして保護事業は資金不足に悩みながらも着々と充実されて、かずかずの難問に突き当たりながらもそれをのり越え、一応の成果をみたのでした。しかし間もなく大平洋戦争が始まって今度は資金不足どころか、その存在すら危ぶまれるような最大の危機を迎えたのでした。戦争が拡大するにつれ既存の機構や関係職が次々に縮少され、司法省保護局は行刑局と共に廃止され、その後は一層の財政窮乏にみまわれ、保護活動は事実上麻律状態となったのでした。昭和二十年、戦争の終結とともに司法保護の関係者は直ちに立ちあがって再建をはじめたのでしたが、十月になって占領軍から突然の指令で思想犯保護観察制度が廃止になったので、関係者は改めて立法措置の根本からはじめなければならない羽目に立ち至ったのでした。るから」・と勧められ後日、先生と称する女性が訪ねてきた。こちらの顔を見るなり「悲劇の相が出ている。印鑑が悪いのでは……」と言い、印鑑を見せると「これは不幸を招く。幸せの来る印鑑をつくりなさどと口説かれ、二十万円で新しいのを買わされた。数日後「印鑑を清めるため、もっと偉い先生に会わせる」と、神棚のあるものものしい雰囲気の部屋に連れていかれた。先生は「悪霊がとりついている。このままでは不幸が絶えない」と不吉なことを言われ、一○○万円もする〃幸福の壷〃を買わされた。必要以上に不安をあおりたてる話には、十分に注意しましょう。○悪質手口その四原野商法「おばあちゃん、お宅の電話番号が当選しました。」という電話があって、温泉旅行の招待状が送られてきました。ホテルに着くと三○人くらいの同じ年代の人ばかり。食事前に会社の人が「北海道に広い土地があり開発中です。二年後には確実に二倍に上がります。今回は、日ごろのお礼に特別価格で分湿します」とあいさつ。セールスマンがたくさん出てきて勧誘に当たります。お金がないとその場は断りました。数日後、セールスマンが自宅にr一種盲享r総シ亨言ご管茄欝i甫r=-,1し(・一こく来て、手みやげを出し、上がり込んで仏壇を拝むなど身内もまねできない親身な世話をするので、すっかり信用。なけなしの五○○万円で瞬入契約。あとで分かったのですが、この土地は実は原野で売るに売れません。しかも、気づいたときには会社は倒産していて、お金は返ってこず、老後の生活はめちゃくちゃ。現地を見ないで遠隔地の土地を購入する場合は、十分な注意が必要です。ロ……へ一.ハハーー~-、ハハ…ハハ一戸---一迫へハハヘ-.--口広報じようほく-337-賭信フ’不工.|□3月のテ-マもし脳卒中でたおれた’入れ歯が合わなくなったと婦人のおりも(小児0洲}スギ花粉症の予ロエイズについ.4月のテ-マ鯵原ヲ歯科医院へのがかリラ予防接種を受ける前I高年初j登校拒否についあつ・ぎっくりI
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