広報じょうほく No.290 1986(昭和61)年 12月
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県功労保護司今瀬敏一とにかくこのようにして徳川時という特別な施設(同じ監獄の中代に芽生えた更生保護事業も、明でも就役中の犯罪者とは異って、治五年には徴治監という制度を作別に作った施設)を設けて刑期がって更に犯罪者更生に力を注ぐよ終った人たちをこの施設に収容しうになりました。そして明治十五で種々の仕事を教え、社会に復帰年になると監獄の中に別房留置制してからの生活に備えさせました。いくら時代か変わり文明が進んでも変わらないものがあります。それは人間の心であり人間の感情です。たとえば、よほどの変人でもない限りほめられて怒る人は昔も今もいません。ほめられると嬉しく思い、ほめてくれた人に好感をもち、親近感がわいて温かい人間関係が生まれます。反対に、けなされると腹が立ち、心は離れ、遠ざかっていきます。こうした心理はいつの世も変わる||投邑II膏少年.相議員の声I更生保護③土寸Ⅱ代の人と心磯野冨永和男ことはありません。いくら科学が発達しようとも同じであるといえましょう。生活の中味が新技術によってどんどん変革されようとも、人間の考え方まで機械のように急進歩し、正確に、精密になったりはしません。いろいろなことわざは、今でも一般に通用する真理を教えています。それらに学び、心のよりどころとしたいものです。現在で催就役中.の者に行二●鍵いますが、この考えは再犯の防止という面から言って誠に当を得たことでしたが、当時の一般社会人の犯罪者に対する日ごろの憎悪というその結果を考慮に入れなかったことが誠に遺憾なことでした。すなわち、社会に復帰後の犯罪者の生活にのみこだわって、一般社会人の協力は全然考えなかったのです。その結果、前に述べたような障害も出てきたのは当然のことでした。さて、この別房留置という制度は稿正の一種とも思われますが、その趣旨については現在行われている更生保護と同様のものであったろうと思われます。そして明治十五年ごろになりますと、一般社会人の中にもこの事業に理解を示す者も出はじめ、原胤昭とか金原明善等という人たちは積極的に協力して、個人で前科者を引きとって世話をし、教育したといわれ、中でも金原明善は篤志家の協力によって出獄人保護会社を作って協力したといわれます。これは、当時犯罪者更生保護の名目で犯罪者を引きとり、教育するかたわら、犯罪者を種々の仕事に従事させたのではなかったろうかと思います。一見、現在の保護会と同じようにも見えますが、会社という点では全く異なるものです。はじめの頃は特殊な人以外にはいっこうに進まなかった更生保護事業も、当局第三日曜日は「家庭の日」家族みんなで話し合いをしよう○今月のテーマ物とお金をたいせつに。買いものの計画・お正月に備えた内外の整理・一年の反省などについても話題にしてみましょう町新生活運動推進協議会の熱意によって少しず(●二般世人にも認識されるようになってきました。しかし、それでも実際に更生保護の仕事を行っていた者は僧呂や監獄の役人といった特殊な人たちでした。そのうちに政府も更に本腰を入れ、明治二十二年には前に述べたような別房留置制を廃止して、出獄人の保護は民間人に行わせるということに定め、各府県に連絡し、その趣旨を徹底させて民間人の立ち上りを促したので次第に全国各地に保護施設ができるようになったのです。じめ・体罰テレホ相談い、皇ノ-人で悩まず相談しようTELB1-ssoc.※平日・AM8:30~PM5土曜AM8:30~PM0:30※日暇、祝日は除きます。水戸地方法務局人権擁護課'5広報じようほく-295-
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