広報じょうほく No.268 1985(昭和60)年 3月
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止二も近くほどはやく流れて真菰の芽今瀬剛一足踏みをして木枯のバス侍てり荒井碩雨打身つ釣も大氷柱西に一点の雲置かず加藤鉦好いた労はりの言葉の欲しき玉子酒猿田道男て呈し木枯しに追はれひとりの屋越かな原勝男洗ひ上げて京菜は色を深めけり瀬谷博子ふりとう蕗の墓出る前ぶれか風匂ふ綿引英子夕空にひびく時報に日脚伸ぶ飯村愛子○一五○|、○○○円城北地方社会福祉協力会代表世話人木元敏男様諸経費を節約し、善意銀行へ預託されたものです。◎二一、七三九円・城北和牛改良組合組合長所周造様善意のともしび和牛改良組合ばら賞受賞祝賀会の残金を善意銀行へ預託されました。◎バスクリン七キロ春園江幡くら様◎バスクリン十キロ田町岡崎三郎様◎バスクリン四キロふかし藷食べている目の父似かな竹内幸子産声は勝どきに似て梅あかり寺山みさを膝の児の重みも嬉し二月なる長須きみの層サダ庭寒く駄石一つの置きどころ吉元つる代稚らごすねる子に春陽はやさし掌の如し浅野菊枝凍滝のそろそろとける真昼どきいそくきよすO・●(匂青竹のゆれに漉舟さからわず阿久津あい子着ぶくれて転びしあとの前うしろ飯嶋とみはうこう立春の文具カラフルに芳香す高橋芦江与えかA地の底の如く静かに冴返る鈴木静枝湯上りの肌やわらかに春の闇鯉劉寿美恵〈城北句会選〉I春園大畠耕夫様◎図書十五冊水戸市・小田木一郎様いずれも老人福祉センターに寄贈されたものです。ありがとうございました。一子供は父親の後ろ姿を見て青一つとよくいわれます。日本の家一族の大半が農家で、親と子供が一同じ場所で一緒に働くのが普通一であった時代には、この言葉が|そのまま当てはまっていました。|子供は父親から直接言われなく一ても、父親の動作や態度を見る一ことによって、必要なさまざま一なことを身につけていくことが一できました。|現在のように給与生活者が多一くなり、家庭と職場が離れてしまうと、子供は父親の生活の一一部、それも働いている父の姿で一はなく、くつろいでいる父親の様子しか直接には見られなくなってしまいました。テレビを見たり、昼寝をしたり、酒を飲んでいたりする家庭最終回標準地の正常な価格を公示し:土地取引規制における価格規制等の規準とされる地価公示制度を理内での父親の姿からは「立派だよっな経過による死であっても、|な」「さすがだな」と子供が思い、生を終える瞬間というのはきわ一ぜひ自分もそうしたいと思うよめて壮厳なものです。その場の一うなものはあまりありません。家族に強い印象を与えます。父一それでも子供がしだいに成長親が子供に見せる最後のものは、-し、青年期になり、さらには壮自らの死にかたであるとわたし一年期になると、父親の生きてきは思います。’た姿をあらためて考えられるよたまたま臨終の場に居合わせ一うになります。なくても、父の死は子供たちに家族の中で父親は普通、最も強い衝撃と感動、それに悲しみを与えます。多くの場合、そこで再び父親のことが身近に感じ父親の「後ろ姿」られ、その生涯のいろいろな場面が想起されるのです。すでに繰癖都哩竪蓉託摩武俊峠唯郡唯議諦幸姪訟岬擬確錐唾一人から生前の父親のことを聞き、年長者です。自然の順序としていい方でした、立派なご生涯で父親が先に死んでいくことが多したといわれて、父親の偉さがいのです。最近は死亡者の過半初めて分かったという人もいま数は病院においてです。自宅です。父親は死亡した後も子供た亡くなる人は年々少なくなってちの心に影響を残すのです。います。父親の死の瞬間に、そ父親の後ろ姿は、やはりいつの場に間に合う子供の数も減っまでも子供たちの心に生きているのです。②ています。どのような経験の人の、どの四月は地価公示普及月間解するための月間です曇▼国土庁が各省庁・地方公共団体及び関係団体の協力を得て実施一8|常北町科学万博を成功させる会広報じようほく-30-
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