広報じょうほく No.228 1982(昭和57)年 3月
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村中を風ゆき才た一り牡丹の芽今瀬剛一.よわい寒の灸いよいよ余白なき齢荒井頒雨しんしんと梅散り風は海より来小賞まさをいてたき凍滝の色を夕日が深くせり綿引英子刃に触れて土大根の割れし色長須きみの蕊r可L宇船睡碧子との距離いつしかはなれ蓬摘み鯉劉寿美恵死の洲もかくやと思ふ夜の雪鈴木静枝語謡郵の続く限りの飛行雲加藤鉦好愈こ…前山の冬日の中の木樵歌・・瀬谷博子スキップは父より高く柚山河杉山幸子鍬立てて顔真向ひに春の風いそべきよ春眠の尾をひく思い検温す吉元つる代「子の帰り待乞よ雑煮の火を細め阿久津あい子母病んで早春の海恋うばかり袴塚末子とブリ上.7棟梁の段取り聞こゆ一焚火.高橋芦江つくしんぽこの道の果母の里見持多美子淋しさは怒りのあとの白い息寺山みさをひあし日脚伸ぷはさみしとりと裁断す飯村愛子思いきり声をあげたし春の闇浅野菊枝直線に朝日のぼりて冬木立飯嶋とみ病院の母へと急ぐ雪の道子、大津ひさと鍬先の触れし一・株芽水仙原勝男家庭の日第三日曜日美しい環境をつくろう社会や家庭の環坑をよりよくする○日常の礼餓・作法○公共物をたいせつに○彼岸と墓まいり○入学前のこどもの健康三月三日はひな祭りでした壷女の子のお節句で、桃の節句ともいわれています。ところで、おひなさまの内裏さま(だいりさま)の男ぴなと女びなは、どちらが右で、どちらが左でしょうか。多分ほとんどの方が、向かって左が男びな、右が女びなと答えるでしょう。そして、京都などの一部地方の方は、その反対と答えるのではないでしょうか。実は、昔は京都式だったのが、その後変わってきたのだそうです。それとひな段の数ですが、十五体の人形だけの五段か、道具類をいろいろ飾った七段が普通です。今は、これに三歌人、小野小町、柿本人麿、菅原道真を加えた八段ものもあります。もっとも戦後、この八段ものひな祭りr~、葬蓋がお目見えした時業界の一部では、祝い事は奇数が普通だとか、八段は破談に通じるので、女の子のお祭りにはどうも、という声もあったようです。また、本来のおひなさまのほかに、毎年、その年のピックニュースにちなんだ変わりびなが発表され、新聞紙上をにぎわします。ちなみに、五十五年はタケノコ族びな、五十四年ディスコぴな、四十八年パンダぴな、四十六年ウーマンリブびな、三十四年皇太子御成婚ぴななどがありました。賎初は二十一年のリンゴぴな。当時のヒットソング〃リンゴの唄″にちなんだものです。こういう変わりぴなを実際に飾る人はほとんどいませんが、こうして振り返ってみると楽しいものですね。r一吋訴戸言秀垂言走=-,胃-11!底報じようほく-519-

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