広報じょうほく No.204 1980(昭和55)年 5月
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学校生活や友だちとの間では人のめんどうみもよく、自分のことは自分でやるが、いったん家に帰えれば、何をするにも親の手をわずらわし、とかく自分勝手なことばかりするlこれが、俗に〃内弁慶〃といわれる子供のタイプです。〃内弁慶“は、いわゆる泣き虫とか弱虫といわれる子供に多く見られます。集団生活や友だちとのつきあいには、それなりのルールがありま常北町の誕生は、私が小学校五年生の時だったと思います。日の丸の小旗を持って、私たち古内小学校の児童は、樫当まで行進した丙話解消なとをうまくコンふロ…ルできない子供が、内弁慶になりがちだといわれています。つまり、外での不平不満を家庭に持ち帰えって、親や兄弟など身す画自分の主張もするが《相手の言い分もきき、ときにはがまんもするlといった二疋のル‐ルの中で、自分の欲求実現や不満のことを覚えています。私たちが中学へとすすみ、三年生になった初夏に、常北中学校の建物の一部が完成し、あの頃めず町と私霊肉弁慶自主的な気持ちをもたせよう戸司近かな人のそばで、自分の主張を一ガンコなまでに押し通そうとする一のです。内弁慶になる原因はいろいろあるようですが、甘やかされて育った子供に多いといわれます。また、年ごろの子供と遊ぶ機今読少なく、そのために遊び方や集団生活のルールが十分に身についていない子供も、内弁慶になりやすいといわれています。周囲が子供のいいなりになっていると、いつまでたっても自主的な行動がとれず、ますます外ど内とのギャップが大きくならないと《もかぎりません。家庭では、自分一のことは自分でする自主的な気持一ちを持たせるようにしましょう。一らしい鉄筋一・一ンクリ…卜の校舎に初めて入りました。片方で工事をしているそうぞうしさはありましたが、とにかく新しい校舎で勉強できたことは繕しいことでしたc当時は高校といいましても常北高校はなく、進学する人は、みな水戸へと出なければなりませんでした。でも私は、自転車通学のできる笠間へといきました。そして、農業の道を選んだわけですが、変動の多い農業の時代だったように私には思えますc家庭の主婦となり、三人の子供よふご風の蓬はいくら摘んでもひと握り今瀬・剛一な陽の障子春の竹薮鳥の晴く所常蔵浜の風素足が春をたしかめる小貫まさをB春あらし株立ちを勢り揃えけり加藤鉦好こぐうぞうそ人子と歩む虚空蔵尊へ風光る原勝男しもくれ人急に顔おほひて泣けり紫木蓮鯉測寿美恵入学の釦まぶしく母へくる瀬谷博子草餅のへこみは母の指のあと見持多美子毎沈丁のいまだ匂ふを挿しかへる磯部きよぱW木瓜活けて居りブラウスの白い腕綿引英子黒髪を重しと思ふ春の風小田木梅あたたかく縁側に置くランドセル杉山幸子の母親とな(た現在私の選んだ農業の道は間遠いではなかったと思っています。西郷村に生まれ、常北町と共に●魚蝋嶋鶴r〆~つ上吾へ出す夫の手厚く花づかれ寺山みさを苗売りの土の匂ひが朝の窓浅野菊枝こぼれ陽を集めて咲きぬ片栗は飯村愛子#三代が女系でありし鯉織吉元つる代よもぎ摘む背中に風と陽のやわし川村多加子春雨に吸はるるごとし背に柱飯嶋とみまどに置く色き一てつなりサイネリヤ三嶋あさ空と海の接点に浮く春の船袴塚末子賜わけし命と思ひ花の春山本節子いつの日かこぼれし種の芽吹きをり長須きみの雨雲の濃くたれこみて花冷える寺門美恵子鯉のぼり見てふる里を想ひけり関根武雄育ち今も常北町に生活できることは、私にとって、とても幸せなことだと感じています。‐灘-212-
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