広報じょうほく No.195 1979(昭和54)年 9月
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一■ー-4-再戸■一--一一一一一一かい叩圭・窒叱声の最後はむせて懸煙章今瀬剛一一大風呂に浴客髄か欲広し所常山一蝉の声さんさんと浴び冷奴吉元つる代縁台に並びし足を数えおり浅野菊枝寝返りを打つも西日の奥座敷瀬谷博子過日、新聞。テレビ等で大きく報道された『私は生き残った』を読んだ。これは、動乱のカンボジアから言語に絶する苦難の道を乗りこえて、奇跡的に生還した内蔵泰子さんの手記である。かつて私も、戦時中南ベトナム、北ベトナム、カンボジアの各地にr一可トナムの難民に思う上谷畿追ひつつ素足風にぬれ小田木梅やぐら骨月にさらして踊り果て見持多美子きらきらと破船をこえて青騰鯉糊寿美恵日照草を風がなでをり子守唄いそくきよはまか.7浜木綿の花の白書に旅いやす飯村愛子bh6基.?思いきり若作りして吾亦紅飯島とみし掌●7ら・駒くつろげる広間の隅に渋団扇卜貫まさを入野猿田正一足跡を印した経験があるのでこと更に感銘が深い。少口笛当時は、ベトナム・カゾボジアも、マレー・ビルマ作戦の補給基地として進駐したもので、戦争といっても目に映る風物は平和そのものであつ《稀満々と水をたたえてゆるやかに鞠一//、_ノー■鍬■E=,=吟重==蜜一一雇唾塗==石重石且エー流れるメコン川の畔に、水牛の群れが水浴するのどかな田園風景、千古の謎を秘めてジャングルの中に眠るアンコールワット.雑多な品物が並び終日賑わう傘型の広大なプノンペンの中央市場、真赤なカンナ花を咲かせた花壇が整然と並ぶ駅前広場等々・住時の想い出のかずかずかまざまざと脳裡によみがえってくる。しかし、あの平和だったカンボジアも政変によって動乱の巷と化し、突如として発せられた都市の住民総退去命令によって、病人も女も子供も老人も、営々として築いた財産、住みなれた家も捨てて、着のみ諭のまま同然で銃剣の先で命ざれるがまま羊の群れのよっに絶好鰯星奉一に悪』Lr令〃〃喉ノ・・四日、恒例の花火大会が催されました。今年で三年目を迎えた夏の夜の饗宴、商工会を中心として企画され、およそ三百発の打ち上げ花火が夜空を彩りました年を追うごとにますます規模も大きくなり、この地方の名物になる日も近、でしょう常北の花火各所から粟っfおびただしい難民が街道I殺到、長駄の列をなして炎天下幾日も幾日も死の行脚の末、何んの施詮もない所に放置されて、流血と飢餓、悲惨な生き地獄巻ながらの難民の様子を伝え聞くとき穂達は同じアジア人として、この悲惨な現実を対岸の火事として傍観していてよいのだろうかと強く考えるものである。宍。世界は一つであるこれを自分達の問題としてとらえ、考え、繁栄と平和の中に生きるありがたさを感じ、これに感謝するとともに恵まれた生活に陶酔することなく苦難の中を生き抜vていむ難民に思いを走らせ、善の気持を日常生活に反映させたなら、必ずや有意r~詞鎗乃毎日か通』ゼる窪戸」と届αであ包今.当時の戦禍の及ま力た鑑かな力ボジアベトナムI想いを走らせ、平和の中卜生きるありがたさをしみじみと感ずるとともに、一日も早恒久的平和が訪れることを祈る気持でいばいである。一夜空を彩る打上げ花ソじようほ広報一=一一一一■一---匡一÷lに
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