広報じょうほく No.128 1973(昭和48)年 9月
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広報じようほ〈昭和48年9月15日一一-一一…~一~…へ~……一シー一一一一-一一一一一一~ハ(3)白神社・曲〃ぶ士,・か“㈲常北町を讃う神社は産土神で吾々の心の拠り処過去の常北町を枝するに当りてもと思う。喜びにつけ悲しみにつけ今日の盛観を喜び更に将来のより神に告げて祖先幾代今日に至って発展を識うことは吾々の共通の感いる。常北町には村社や無格社合い‐わゆfo附である。過去現在未来は所謂仏せて二十社近く鎮座ましましてぃ教でいう三世であるが弦で一寸町る。脚・7,〕句必叩〃彫心のphた0か”』少』の現況を誕歌し反省して筆硯を新その中たけみかつちの命をお肥りみ画》とにし過去の物語りに移りたいと思した鹿島神社の多いことは命の御う神蹟によることは前述の通りで郡l神の社の緑濃く、亜盛山のい誌にも述べてある。じょしつや高く薬師如来の慈悲深し、以下委しい彼述は省略して要点の河の流れのとこしえにみに留め更に詳細を希望さるる方甫も2庁舎堂々揺ぎなく、福祉社会々は各神社所蔵の古文沓、郡誌、の町づくり茨城県神社誌(神社歴糊)水戸御職場職場に力満ち、町の栄え領内鎮守帳、古典常北の文化(今も限りなく瀬義次先生執筆)二十八社考、歴3小中高校整うて、公民館に民史辞典(十二冊)新編常陸国誌並つど集うぴに水府志料等星散在的に記述し心身共にすこやかに、伸び行てあるものを参照されたし。q76hく町の閥しさ(其の二草懸神社雛平要塞常北町史認3)町を讃う4夏は緑が満ち溢れ、秋は垂穂の波豊か、軒を並べて店栄ゆ、人や車もしf繁くして噂、1h5-町融和一色に、祖先幾代うけつぎて理想高らか大行進、我等の町に栄あれ二年G』昌一一目宮上泉に鎮座し、たけみかつちの命をまつる。●創立I正応元年二月(郡誌)承徳元年二月十八日(常北の文化)《叩沖1L←凸●由緒l一説に祭神が東征の時この地に来り草を利用して賊を平定したので草懸神社の名が生れたとい、7。元禄年中水戸我公がこの地を祭典田として氏子に耕作させ無税で収納米は祭典用に供したという。義公は由緒深い神社や寺院はいろいろの手段でこれを保誕したが社会風教上思想的に悪い社寺はどしどし打壊して居る。詳細は後述すう(》◎鹿島神社々領目録に『那珂郡かみいづみ五斗』とあり鎮守帳には社領二石五斗五升五合とあり。(其の一一)風隼神社●創立l大同元年正月十日と伝う。祭神東征の折通過の地という.●由緒l石塚西北隅に鎮座し後方風致宜しく老楓あり渓流ありて桂し山・7村を一望の裡におさめ速微聾立一幅の活画の観がある。大正十四年茨城鉄道工事の為に一柵破壊された.氷禄十二年九月二十八日石塚城主源義国本社を修築。天正十八年九月十七日豊臣秀吉小田原征討の際役銭充つるを停め棟札一石五斗四升六合の除地を奉納。水戸藩主除地二石二斗八升を寄贈。大正の末期擢災。水戸義公の百年の計は植樹にありとの意に基づき杉梢を多く植う。五本骨扇、軍配団扇、石塊を神宝として蔵す。の雫げ祭日の職りは宇削野弘の書であったが大正十二年より菊池鎌二郎氏の書に改めたと郡誌に述べてある。(其の三)那珂西神社那珂西に蚊座し、ばんだわけの命(誉罰命)後に応神天皇、たけみみこ〃』1つかつちの命、天の児屋根の蝋を肥プ(》。●創立l明治四十四年四月二十四日春日神社、八幡宮、血陥神社の三社を合肥して那珂西神社と称した。郡誌には天保年中鹿胤神社、春日神社を合肥して那珂西神社と称したとある。八幡社は佐竹義宣が天正中太田から水戸市田見小路に移し元禄七年に那珂西村に移され宝永四年水戸舟と市八幡町に移されその剛に八幡社を営むとあり。各校運動会小松小学校九月二七日(木)古内小学校九月三○日(日)石塚小学校九月三○日(日)青山小学校十月一日(月)第7回城北地区和牛共進会とき48年10月18日(木)1日限りところ城北家畜市珊(石塚小学校となりです)出品頭数25頭展示牛・・・…・…..・・・5頭その他優良経営股家パネル展示4点…シシ一一…へnr-dと0-

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