広報じょうほく No.127 1973(昭和48)年 8月
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繕く-戸い一グー〃、一一~昭和48年8月15屑茨城県東茨城郡常北町廷茨城鼎東茨城郡常北iIiT発行発行者印届|」所稲責刷所石川関印清音寺の宝崖印塔(蝿御嬉飛う●一清音寺古杉琶蒼たる参道を登り堂前の左小高い所に法僧の墓域がある。前に三ヶ並立している五輪の塔が宝匡印塔である。復庵禅師佐竹義教佐竹貞義五輪の塔は上部から「空輪」「風輪」「火輪」「水輪」「地輪」の五部から成っている。この五輪の塔は、十四世紀以降のものと推定され石質は凝灰岩で三形式とも同型、「空輪」「風輪」の馬耳状の突起に投傷が見られるが(原因不詳、長期の風化か、或は動かした時の損傷か)大体形態が良く整い全体的に風色が少ない。就中中央の佐竹義敦のものは保存形態著しく地上よりの総高さ一四糎に達している。数々の宝匡印塔の中で傑出し県の文化財としても決して塊しいものではない。町の重要文化財復庵禅師は一大名僧吉野朝時代康永三年(約六百余年前)佐竹義敦が父貞義の追福の為に一大伽藍を創建、新治郡新治村高岡法雲寺より復庵禅師を招聴して開山した。復庵禅師はその師普応国師峰明本を(既に死段)して開山の祖とし自らは創建の位これは氷山の一角ではあるが河にそのお人柄が見られる。一大名僧で後光厳天皇から大光禅師の称号を賜っている。親孝行の佐竹義敦源義光十一代の孫佐竹義敦(清音寺由来記)が父貞義の追福のため創建というのであるからその孝心には深く敬意を表すべきであろう。佐竹氏の系図は次のようである。(常北の文化から)‐義信周枢‐義期佐竹貞義義敦‐宗義義春‐義孝‐義貫宗義は義敦の第三一子雲、始めて石塚に城を築く。城吐は町の北につくる所の東北に位す。基の祉今尚ほ存す。町の人口跨岨男女I2,609世帯10,649人5,109人5,540人(8月1日)-317-488月号No.121今月の納税町県民税第2期分員長瀞霞第3期分尭暴卜禦全期分隆業鍔第1期分
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