広報じょうほく No.126 1973(昭和48)年 7月
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広報じようほく(4)昭和48年7月15日H概況神武天皇以前の神代のことは知る由もない。ただ当時の人々が用いたと思われる穴居。土器。石器貝塚等によって瀧げながら偲ばれるに過ぎない・タケミカッチノカミが当地方に神蹟を残されたことなどが神道集に見えているが、我が常北町にこの神をおまつりした鹿島神社が沢山あることは、これを裏づけするものと思う。神武天皇より開化天皇までは、当地方も全く平穏無事であったようだ。十代崇神天皇の代には建借間命(たけかしまのみこと)が勅命によって当地方等の賊を平定された・飯富の大井神社は命をお肥りした社で、渡里の愛宕山は命の墳墓であると伝えられる。社号を大井というのは、命が地方人民のために大きな井戸をいくつ百一堀って潅概に便したというので名づけたも町史談常北のことは全くわからな吃この頃から束の方も騒がしくなって、武淳川別命(たけぬなかわのみこと)黒坂命、日本武尊等が勅命によって平定に向かい、当地方を通過されたと伝えられる。十三代の成務天皇の代には、国造の制を立てられた・国造本紀(くにのみやつこほん一き)には全国で六十三国に及んだと記され、日本書記には天皇が内治に意を用いられたことが述べられてある。常陸地方には新治、筑波、仲、久自、高の五国が置かれ、それぞれ国造(くにのみやつ一二という長官がその地方を統治され迄¥我残っている畳全伊野とぃ一参た時が仲国は建借間命が国造となった。代もあった。入は奥の意味で野応神天皇の代茨城国造が置かれは平坦の地を意味する。入野川前五国と合わせて、六国造となり(今の藤井川)の奥の平坦の地これ等を総称して、常道(ひたみという意味と解される。ち)とよんだ。文武天皇の代に常道という名が定まり、当地方は仲○日下部(くさかべ)郷Ⅱ上泉国に属していた。六国の中央に位新編常陸国誌に、上泉村に草懸雁年に評を「郡」●とし一そ一の下に一室をおいたが、聖武天皇の神亀元年に「郷」の制が立てられ、那賀郡は二十二の郷が定まった、全国で例外の大きな郷であった(常北文化物語参照)常北町の「郷」の状況は次のようであった。異説もあるが、主として新編常陸国誌について訳することにした。○入野郷は上入野。勝見沢”磯野。増井等がこれに属していた。上入野は上下に分かれていたと思うが、上入野の名のみが今日○鹿島郷は古内村等八ヶ村これに属す。中世那珂郡の内にあり塩篭(しおご)庄に属するものもあったが、文禄検地の時茨城郡に属した。なお三代実録に鹿励神宮御造営の際は、古内より造材を献納したことが記されてい↓台。○石上郷(いしがみごう)は上背山、下青山、上小坂、下小坂宗田(春園)野田(春園)等十一ヶ村七千六百石,の地。古代は石里といったものを、石上、石下と分け、後に一郷となるに及んで、石上の里とし郷名としたものであろう。下青山に石神の地名があるのは興味深いことである。石塚Ⅱ民居の地の意石野田(春園)郷の制度は永く続いたが、中世地方の政治が乱れ、武家が起る頃には那珂郡の地が、吉田、那珂東、那珂西の三郡に分れた。後陽成天皇の文禄三年石田三成が秀吉の命により検地を行った際に、那珂川以南の地を茨城郡以北を那珂郡とすることにした・明治十一年に郡の西部を西茨城郡、東部を、東茨城郡と呼ぶよう″になった。この地は束は那珂川に限りて上泉、中河西(なかさU等五ヶ村五千二百石一ばかりの地である。中世は中妻三十三郷の内に入っていたが、文禄検地の時茨城郡に属した。なってその名残りをとどめるようになった。(武士の興起後の変遷、郷土読本によるところが多い)以上常北町の太古よりの概要を略述したのであるが、後半は簡にすぎてこまった。最後に一言したいことは、次のようなことから当地方は早々文化が開けていたのではないかと推察されることである。それは、H神社が多く、鎮座ましますこと常陸には古く二十八社があった当地方には青山神社外五社が鎮座されている。神社が多いということは、人が峯て住んでいたことを意味し、住民が多ければ文化が開けているということは、今も昔も変りがない。口タケミカッチノカミ、手力男命(たちからお、フのみこと)その他の神々が出入りされた伝説のあること。口多種多様の土器類が発見されていう色こ、と。仰常道(ひたちみち)とよばれたこと。「常道」とは、民居がち密で江海の隔りなく山河峰谷もよく便利で往復も繁かつたという意味である等のことより推察-〕て文化が他地方より早々開けていたと思われる。これは地の利もあったが、吾々祖先の努力が大きかったごとを忘れてはならぬと思う。(筆者常北町文化財調査委員所常蔵)八列n-dlと一

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