広報じょうほく No.82 1967(昭和42)年 8・9月合併号
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報じようほ本校が那珂西分校を統合し手」|‐瞥・さ・↑‐界“.・兵】一シ・者・曇・皇・豊・元石塚中学校の校舎とその北側○本校の校地面祇とに新たに校舎一棟を増築した現教職員と児童の数.’張地に移転して既に六年、昨年校地而概四一、・六○三平方米はまた県下小学校としては数少巡物〃三、三四〃・ない屋内運動鋤の竣工をみ、め教職員数二五名ぐ室れた環境と相まって教育諾児童数五五九名般の機能が整ってまいりました○本校における災間笠下校のやくそくこの川、町当鮒、識会はじめ安全を守る親則や、習悩を邸学区はもちろん、ひろく町民のにつける実践の場として、本校方々からの物心両面にわたるごでは特にF築匝による登下校]支援と協力に衷心心より感鮒するの指呼にⅨ点をおいている。次第です。近所の友達どうしが毎日きめ三十九年鹿から三か年にわたられた時刻に集まって、規律正り学校教育実験地区としての実しく安全に登校しようという目践研究を続け昨年十月完結発表的で、通学班(四五班)を編成会を好評棚に終ることができまして実施している。した.。また次のようなやくそくをきまた、一昨年座十年庇には学め、副学年の児童を中心に自主童の登下校の安全をはかるため的な安全活動を行なっている。》の研究をも進めまして学力の側○きめられた通学通路を通る上と児爾の安全を確保すること○さっさと、同じ歩掴で右側につとめてまいりました。を一列になって歩く。昨年庇をもって、一応指定研○時Ⅲや時刻を守ること。究は終りましたが、研究に終蔚○遊をよこぎるときは、よく駅はなく継続研究として次の研右左をたしかめてから、手を究テー↓、によりその解明をはかあげ、車が止まってからわたるための研究を池めることとなること。りました.この巣間壷校によって、朝ねすなわちぼうをしなくなったり、みんな〃ひとりひとりを生かす仲良く上級生のめんどうで正し創造的学級経営の実践ヶい歩行が身についてきている。宮いかえれば、自主的生活態本校の理想と自戒度の育成、ということです。F五つのよい子斗と巨一つのこうした研究を進めるために全ポイント]というものを考えて職員が学級経営研究部、生活折います。町内四小学校と一中学校を紹介してまいりたいと思います。本号は、石塚小学校と古内小学校より寄稿されました。導研究部、学習指導研究部にわ石塚小学校かれて砺究を進めております。地域の人の心に支》忠られ今子校長川津輝雄どものカクをのばすためのあゅ.みを力強くそして治実に運んで蓬I険繭謹蕊第婁謹◎沿革明治六年学制が瀕布されると全圃に小学校が設斌されたが、古内でも明治八年上古内に小学校(現在の上古内青年会館〕が設けられた。その後幾多の変遷を経て明治三十四年西郷第二尋常小学校として独立した。昭和六年現在地(下古内仲郷四○五番地)に移転した。◎規模校地面種六千九二平方米校舎延一千○一六平方米児.童数二一九人学級数七学級教職回数十一人学校としては盛だ小規棋である上に、殴近の児童数は年々著しく減少しており、これは農山村全般の現象ではあるが、今後の学校経営に大きな川題であるF五つのよい子]とは一鯉服な子二親切な子三がんばる子四考える子五言葉をたいせつにする子匡一一つのポイントョとは一自分のことは自分でするI‐自律二自分連のことは自分逆でする1-自治三進んで他のためにつくす11奉仕・・::です戸五つのよい子当をめざし亡二つのポイント]をおさえて、全教職貝と児童が一体となり、家庭の積極的な協力を得て最善をつくす考えです。そして何より肝心なのは、父I■毎兄や教職員の卒先朔行であると侭じています。古内小学校と思う.教育に精進する”学校経営についてB健康に静意し安全に努め班教育に閲する蹄法令規に則り故防止をはかる。県の教育指導方針並びに常北町望ましい児童像としては学樹教蔵判の要望を体して鵡小1たしかな学力を身につけた学校教有の全領域にわたり捌和子(よく勉強する子)のとれたしかも児童及び地域の。た“函鮭坤氷認哉つ子(人の実態に即した教育の実現に努力3体格、体力を助進し、糊にしたい。安全を守る子(健康安全を守る子)・本年度努力点としては1学力の向上をはかり実力をPTA、教育後援会の協力につける。より、校欧、校旗が制定され、勇児竃O社会性の涌採と盤か最近では岐簡隊も編成され(七な心情の陶治。月十九日披鰹会)児噸述の懲気3盤かな体力と体絡の育成をも断腸され感謝している。今後4よ俸擁麺燕蛾唯嘩識乳討准みの問題点としては、講埜の改造教師の信条としては(体育館としての機能が発揮さ1教育槻を確立し使命を自覚れるよう)や給食室改善等があして、児煎の個性をみつめてる。なお児耐の机腰掛(二人掛その淵能力の開発につとめるが多じは頗る旧式でありしかz互いに協力し戸和一の精神も老朽しているので取りかえ等をもって戸採長補短]日々の緊急を要するものがある。児亜.写真(新しく編成された古内小鼓簡隊)変化もありません養子は、従親の戸締にはいるのが原則であり、離婚や離縁の場合は、どちらか一方の氏を改めた者が復蒋といって僻姻、恐組前の戸縛に民ることとなっています。戸鯖には、各人の戸耕を特定するために本鰯の表示と戸鮒の一排股初に妃倣された者の氏名(張頭者)の記戦があります。旧民法下では、戸籍の記載のうえで班頭者の位腿に戸主・の把叔がされていたため璃在でも飛頭今年.は新患一捗戸鱒法が施裾室.れてから二十年になりますので改めて戸籍とはどのようなものであるかを紹介しましょう。○戸筋は、どのようにできているか。戸籍は一組の夫姉とこれと氏を同じくする子ごとにつくられています。つまり、僻姻関係にある父母の川に生れた子は、父母の〆氏を称しますので11」|父母の戸蒋にはいり、姑姻関係になな湾潔溌は陰粥率で母の戸籍にはいの騨羅蕊籍難戦一戸・”韓誹鯉一の関係には何らのの教育にはよい教師よい噸境はもちろん必要であるが、物的な施設設備も必要である。農家が作物を作るとき太陽、空気、水(教育では、教師や環境)が必要であるが、よい肥料(教育では物的施設)も大切である。児童にとって学ぶ時難は生涯につものと忠われ勘いですが、なんの椛限もありません。○戸蕗にはどんなことが妃戦されているか戸鰭には各人を特定するため氏名、閃生年月日、父母の氏名父母との続柄が記載されるとともにその身分酬璃を妃戦する欄には、出生、認知、蛎姻、縁組離婚、離縁、死亡、失昧、親椎後見、相続人の廃除、固鯖の得喪に関する祁項などが肥戦されます。人は、人生一つの戸鰯にとどまっていることは少なく、嬬姻縁組などにより新しい戸篤や他の戸崎にはいって行きます。その場合には、初めの戸篇に記載してある出生、鋸姻、嫁組などの砿要珊瑚だけ移托され、初めの戸耕との川に連納がはかられています.○戸緒の届出届出る砿類には、出生、死亡裁判雌姻、など既成の珊突や法律関係について行なう報告的な届出と、幡姻、離婚などのように厩出によって一生の身分関係が成立したり滴減したりする創設的な届出があります。戸鰭の届出は、桝而又は口頭によってすることができ、↑届出をしたり、郵送したりすることもできます。また、市町村役場では、休日、祝日でも届出があれば福、日而の勤務uが受付けることになっています。毎たとえば、結婚式をどれほど盛大にやっても婚姻届を市町村心役場に提出しなければ正式の婚毎日侮日が伸びゆく尊い時期である。教育に明日が永い。教師も両親も社会も毎日がくり返しのない時であることを想い、紬一杯の協力をして児亜を伸ばしてやりたいものである。次号は、銅二回として、常北中学校を紹介する予定です。不潔ださかずきのやりとりをやめましょう・澗席で酒盃のやりとりがよく見受けられますが、これは、城に悪い淵悩です。他人の.pから自分のロへと、著し、おそろしい揃箇(ぱい滋等)が伝染したら火へんです。そこで、茨城県公雅術生協識会が主唱して、禁献祇遡動が十二月一ぱいまで行なわれます。この迎動に衝同さ札る省に蕊献溢バッヂを戦により配布しています。◎禁献盃バッヂ(ネクタイピン)一眼百円◎申込先役堀厚生課姻をi|たことにはなりませんつまり内戯の夫姉に過ぎないのです。内縁の夫姉から生れたる子は非嫡出子となり、内縁の夫が死亡しても内縁の妻には相続樋は認められておりません。したがって、結蛎式をあげたならば即日届出をするようにすることは、当堀街の椛利を保護する丈場からも望ましいでしょう。なお、出生、死亡のように報告的な届については、届出義務背及び届出期間が定められており、川生は、出生した日から十四Ⅱ以内、死亡は、死亡の邪奨を知った日から七日以内に届州一をしなければならないこととなっていますから、届川義務背がその期間内に届出をしないと五百円以下の過料に処せられます○戸鯖の記戦を知りたいとき就職や結断問胆などで戸耕の記戦内容を知りたいときは、だれでも市町村役場で戸話簿、除篤沖などの閲覧ができますし、ゞまた、膿抄本、肥戦聯項祉明祢の交付請求ができます。手数料は、戸閲覧一回四十円三戸脳抄本一枚四十円二F記戯靭項正明宙一件四十円]です。-164-

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