七会村117周年記念誌 2005(平成17)年 3月
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塚田修昔龍『.-会は一イノシシの村」なんて呼ばれて、私はそれが嫌いで、言ってみればそうしたコンプレックスをバネにして仕事に打ち込んできたところがあるわけです・でも、今の時代、逆に「イノシシ」を前面に出して、この地域の特色として売り出すという方法もあるんじゃないかな。阿久津豊合併を機に、物産センター「山桜」が第3セクターの法人になるので、あそこをひとつの拠点にして“七会のイノシシ鈴のイメージを売り出すことも可能ですね。阿久津玲子水戸から七会に嫁いで加年になりますが、ここはとても住みやすいところで耐この住みやすさはずっと守り続けて行きたい部分ですね。仲田純子お年寄り同士のつながりも密なので、留守にする時に、おじいちゃん、おばあちゃんを預かってもらうのだって安心ですものね。阿久津玲子何度も話に出ていますが、本当に近所の方々が家族同様なので、水戸なんかとは違って、もの一JもU仲田英尚これから地域に欲しいものといえば、みんなの「集いの場」でしょうか。このあいだ、娘が笠間の「陶芸の森」でマラソンをしたんすご.く助かることが多いんですよ。うちの子だって隣のおじさんに随分遊んでもらったり面倒みてもらいましたから。こういう人と人との関係は、これからも大切に阿久津貴守阿久津豊飯村義弘}向二一兵‐局」万局巳従来の個別の施設をどう扱うかといった課題も出てきてしまう。ただ、広域行政の制度運用で、合併後の城里町内の施設だけでなく、水戸ですが、ああいうのが地元にもあればいいな。阿久津藤男それと、総合グラウンドというのが無いんですね。連動施設は個別に整備きれており、総合グ倒飢痔IF「阿久津玲子阿久津藤男塚田修左」l》ひ復活碁たしものです。それには、若い人が増えないとね。仲田純子嫁いで加年の私は、まだ神輿祭りを見たことがありません。ナ内の笛斐施設I)し一水戸市民と同じ条件で利用できるので大いに活用していただきたい。阿久津豊地元に伝わる神輿とか、途絶えている祭一12阿久津玲子私は加年なので、神輿のお祭りを体験していますよ。阿久津則男神輿は昭和蛸年に一度復活し、以来、晦年ぐらいは継続していた。ところが若手の後継者不足と勤めの人は会社を休めな尚いということで途絶えている率わけです。昔は、塩子の中だ仲けでも、岩下仲郷・塙・宿戸ノ内の3つの地区で1週間ごとに祭りが行われていたんですからね。阿久津藤男神輿が家々を回り、担ぎ手は酒のも鋳てなしを受け踊りを披露す価る・何軒か回るうちに酔いも増して、なかなか豪快な祭りだった。神輿も重たくて、無理すると肩が腫れる。阿久津貴守神輿が2日間で、準備と後片付けを幅含めると最短でも4日は必諏要。なかなかそれだけ休み砿を取れなくなっている。交替で担ぐとしても釦人から如人の人手が要りますからね。塚田修再復活させるには、担ぎ手を地区内だけでなく七会全体から募集することも考えてみていいのかもしれないね。化会地区活性化への提言昭和'30年に4286人だった七会地区の人口は平成,16年に2390人に減少。公営住宅の整備などで減少傾向にある程度の歯止めがみられるが、過疎化傾向からの脱却が課題。このため1.道路交通ネットワークの強化2.U・』・Iターンの促進3,若年者定住施策の強化4.就業機会を増やす産業の振興5.高齢者に対応した施策の展開、などが求められる。-活性化方策の詳細は資料編(30(5)を参照一三の座談会は、平成16年11月四日に行われたものを抜粋して構成しました。

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