七会村117周年記念誌 2005(平成17)年 3月
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飯村友紀●プロフィール昭和62年生まれ‘今なら自慢できる七会阿久津直之●プロフィール昭和15年生まれ。中学校卒業後、50年間水戸の会社に勤め、昨年悪れに退職。道路事‘情は大きく変化03高校は下館の高校に通っ一いたのですが、はじめの頃は学校の友だちに「どこから来て‘官、の」と聞かれると「笠間・水戸方面から」などと答えていた"です。「七会」と答えても、どせ知らないだろうと思って。でも、夏休みに部活で一緒の子が家に遊びに来て、シイケ栽培のところとか何カ所かを案内したらすごく気に入ってれたんです。それで「また行てみたいな」と言ってくれた。一れがすごく嬉しかった。七会は、人のつながりが強いところで、それが一番の良だと思う。道で人と会っても、”んなが挨拶するし、これからそうあり続けて欲しい。04七会中を卒業して、校長先生のご紹介で水戸の商事会社に勤めました。水戸で所帯をもって頑張っていたのですが、昭和42年、私が27歳の時に実家の母が1人きりの生活になったのを機に七会に戻り、以来、ずっと地元暮らしです。戻ってみると、七会の良さがしみじみと分かりましたね。七会から毎日、水戸までクルマで通いました。最初は会社のダットサン・トラックが通勤車。朝早く出る仕事だったので道は空いているのに、会社まで1時間半はかかりましたよ。今は、幼馴染の仲間とそば打ちしたりの付き合いが楽しい“家内とボランティアも始めます‐阿久津改造●プロフィール大正15年生まれ。農業を営む傍ら、長く農業委員を務めた。塩子地区老人会長。往時の活気が私の七会阿久津弘子●プロフィール昭和44年生まれ。水戸市碧身で平成4年に結婚を機に一堂会村へ。2児の母。子育てに恵まれた環境はいかLNANAKAFORUMぴ古くはスズを産出し、大正期にはタングステンの山として栄えた高取鉱山の賑わい。そし一戦前から戦時中にかけて欠かせぬ燃料だった薪と炭の産地として活気に溢れ、それなりに裕福であったと思う当時のこが忘れられない。「過疎の村」というより私にとっては当時の活気のある姿こそが七会のイメージなんだ。合併は複雑な心境。正直寂しい。でも、この地域の良しところは「平和」だということだ“合併しても平和であって欲し↓し、平穏だからこそ守られ続けていることがたくさんある。嫁さんにも来てもらい、子供も増える地域にしよう。02七会にお嫁に来て13年目になります。まわりが山ばかりで、最初は抵抗もありましたが、ずっと暮らしていると、ここならではの良さも分かってきます。子供が病気になっても、診療所に電話をするとすぐにみてもらえますし、役場に用事で出かけると職員の方が気さくに声をかけてくれるんです。サクラに新緑、そして紅葉..:…四季折々の自然の姿は、子供を育てるのに素晴らしい環境だと思います。中1と3歳の子供がいますが.学校でも保育所でも、先生方が苗字ではなく名前で呼んでくださるなど、温かい雰囲気がありますね。豆いる

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