常北町施行50周年記念誌 2004(平成16)年 11月
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③謹羅嬢…う也莱たばこの畝上げ作業。この頃、たばこの石塚とも称された(昭和6年)さらに、アメリカウオール街の株式暴落に端を発した世界大恐慌で、日本の輸出は激減し物価も下落します。そのようななか、多くの企業が倒産に追い込まれ、失業者も増大しました。特に繭や米なとの農産物の暴落が著しく、常北町域農民の生活は困窮を極めました。明治31(1898)年に置かれた水戸地方専売局石塚出張所は、昭和6(1931)年7月政府直営となりました。石塚の葉たばこは、太m町(現常陸太田市)に次いで県内第2位の生産敬を誇り、石塚町に無くてはならない大切な基幹産業でした。当時、管内の耕作人員は4,500名.買い上げ総額が70万円を超えていましたが、恐慌のあおりで買い上げ価格が切り下げられ、常北町域の農民の幕らしはさらに厳しくなりました。昭和6(1931)年の満州事変に続き、易こうさよう昭和12(1937)年7月の蔵満橋事件が引き金となり日中戦争が勃発。日本は、一気に躯事色を強めていきました。そのようななか、昭和10(1935)年4月、国防力強化の目的で、勤労青少年に対・する統一的な教育機関として「青年学校皇が発足しました。常北町域には石塚、小松一西郷の農業青年学校が設世され、地域の特性を生かした勤労者教育が実施されました。また、昭和15(1940)年4月には「石塚実践女学校」が石塚町内に開校。翌16(1941)年には、教育審議会の答申に基づき小学校令を改正して「国霊騨蓑鐘なぎ卒た薙刀iBIi線を行う石塚実践女学校生(昭和10年代後半蕊空襲から町を守るため防空訓練バケツリレーを行う女性たち(昭和19年頃)毎F一一=凸1脚~獣烏§鍵倦誇匠一一一一一.-13豪心つなぐ・、はろかなる
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