常北町施行50周年記念誌 2004(平成16)年 11月
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rテーー琴逢遜2によって統治されていました。慶長5(1600)年、関ヶ原による戦いは徳川家康率いる東雛の勝利で幕を閉じました。西上の折、徳川家康は背後から討ち入られるのではないかと、石田三成うえすぎかlfかつや上杉景勝と密約を結んでいた佐竹義宣を恐れていました。しかし、このとき義宣は動きませんでした。家康による天下統一が始まると、諸藩に厳封、転封の厳しい処分が下ります。佐竹義宣は、盗臣側に加勢はしませんでしたが、三成や上杉と密約を結んでいたことから転封を命じられ、秋HIへと下り、家康の5男武田信吉が水戸15万石の城主に任ぜられます。しかし、信吉はわずか1年で病にたおれ20歳の若さで死去し、幼名鶴千代(のちの頼房)か水戸城主となります。そして、水戸藩が創設され、300年あまり続く大平の世が訪れます。幕末、時代は再び大きなうねりを見せ始めます。嘉永6(1853)年のペリー来航に始まった外交問題は、徳川14代将軍の継嗣問題とからみ、大きな政治闘争へと発展します。そして、幕府が無断で日米通商条約に調印したことで孝明天皇は激怒し、聴政の改革を促すためI茜しん水戸藩へ密勅(戊午の密勅)を下します大老井伊直弼は、これを水戸藩の幕府転覆の陰謀とし、安政5(1858)年関係ヒノキ材一木造の不動明王応仰裏に光圃の刻銘がある(小松寺所蔵)剛隠繍|'た過激な撰爽派の浪‘#士たちが、井伊直弼を’II鳶殺した「桜川門外のil変」を引き起こし、やがて、世情は幕府滅亡へと,l向かい始めます。蕪府側についた水戸藩の多くの志士は、薩嬢・長州らなる政府軍と激しい戦いの末|明治へと時代が引き継がれます。天保検地の上古内田畑絵図、水戸藩の検地は天保11年から13年にかけて実施された(鯉測忠中民所麓)灘蕊騨識篭誕者に弾圧を加えます(安政の大識)。こ無実を訴える「雪菟運動」を展|淵した。”どう仇方罫]"閥趣、r靭哩鱗加純一'。“r幸:上財)

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