常北町施行50周年記念誌 2004(平成16)年 11月
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②耐謹鴬宝横院の香象。儀式に用いる南北朝時代の、那珂西城跡。現在は土塁と掘が残っている(県指定史跡文化財)太田市天神林町)を本拠地としたことに始まり、治承(1179-81)年間には、常陸国の奥7郡(那珂西・那珂東.久慈東.久慈西・佐都東・佐都西.多珂)まで勢力を拡大していきました。佐竹氏は、3代頃まで久慈川上流域ふりかみのHfの依上保を中心に居住していましたが、4代以降、鎌倉御家人の立場を利用して南進し、那珂川流域から東海村辺りに居城を樵えるようになります。その後、室町幕府から守誰に任命されると、その権威をもとに在地の武士団を動員。さらに、那珂川中流の水上交通網を支配下に瞳き、佐竹氏による領域支配を不動のものとします。主Lあつ佐竹氏10代の義篤(敦)から所領を相続した次郎宗義は、那珂西郡石塚郷(現常北町石塚)の石塚城を築いたことから石塚氏と呼ばれるようになりました。家臣たちは、現在の仲宿一帯に居館を職え佐竹一族の菩提寺、清音寺の開山堂西側にある三基の宝薩印塔(町指定史跡文化財)以後今日に至るまで、石塚地区は地域の政治、経済、文化のI'心地として栄えます。当繍撫繍熱畠溌蕊隆天正10(1582)年、豊臣秀吉が明智光秀討伐によって天下統一を果たすと、たいこうけんも秀吉はすぐさま太閤検地を行いました。佐竹領は、文禄3(1594)年に石Ill三成のもとで実施され、総石高およそ54万満さた吟表しのぷとされました。佐竹義宣は豊臣秀吉か多領国安堵の朱印状を与えられ、現在の常北町一帯は石塚城を中心として義宣14米‘心つなぐ′・はろかなる
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