常北町施行50周年記念誌 2004(平成16)年 11月
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宝頓院の両界蔓茶羅。左は金剛界蔓茶羅、右は胎蔵界蕊茶羅(町指定有形文化財霧李蕊謹謡幾撫蕩鶏中世の常陸国域に勢力を拡大したひたち廷いじよううじのは、石岡を拠点とした常陸大嫁氏でした。大橡一族は、平貞盛の血を引く豪族で、常陸国の三等官大橡の地位を世襲したことから、その名を名乗ったと言われています。「小松寺縁起」によると、文治元(1185)年、壇ノ浦の合戦で平家が滅亡した後、たいちの冬遥よし平家家人だった平貞能は平清盛の嫡男重盛の夫人とその妹を伴い、高野山に逃れ出家します。その後、北陸から下うつのみやとも画き野国塩原に隠れ、宇都宮朝綱の保誰を受けました。そして、朝綱の計らいによって、源頼朝から山林隠居を許されると、貞能らは大橡義幹を頼り常陸に入り、高野山から分骨した亜盛の遺骨を小松寺後方の白雲山に埋葬します。以後、貞能は小松寺裏の白霊山中腹にある、伝内大臣平重盛墳墓(県指定史跡文化財蕊…鰹毒蕊雲I茜麓い小松房以典と称し、重盛の菩提を弔うし妬どうがらんため七堂伽藍を建て、小松寺の寺号を付したと言います。寺には、亜盛の守り1四ばりによいりんかんのんぞう本尊である浮彫如意輪観音像や、重盛の夫人が使用したといわれる古鏡などが寺宝として伝えられています。大嫁氏の勢力衰退とともに小松寺の寺勢も衰ゆふそんえますが、至徳3(1386)年、名僧宥尊が中興開山し、この地方の真言宗の中心として隆盛を極めました。大橡氏と勢力を争いながら、現在の県北部を中心とした地域を治めたのが‐源氏の血を引く佐竹氏です。佐竹氏は源義家の弟である新羅三郎義光を祖としその子義業が久慈郡佐竹郷(現常陸薬師寺の薬師如来及び両脇(国指定重要文化財)7洗5α"』""j””ぴ砿ん"りん"ィ""〃蕪8.,
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