じょうほく議会だより 第4号 1976(昭和51)年 8月
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+・六希(寺門〉議員輔蝉今改飛については、ゞ咋川町蛙から縦叫がありましたので、・応r狼します”ただ紋宥及に伺いますが、世朽校であるお塚小を改築するという澱しが、町内に流れていますが、どのよう幅お聞きになっていられたか。二蕊として肋役人耶雁ついてですが、かねての懸索ですが、石川町基になっ豆・賑ですか、進柾ができるの趣例いたい。を蕪、潅剛耐致についてですがF″脈へ訴醐によりますと茶人学の進出が予定されていると仰いていますが、町壁として、こう大きな挙校総数について、呪布どういう心境でいられるのか、今脈の誹醐としてどう考えているのか。剛点として、町布地処分の件ですが、個人我雛迄払いドげる誠持ちがあるかどうか。丘点は、小概診旅所についてでずが、この中にある暖旅機械の処分方について伺います、六点は、胆十七年に起きた水道井戸小紋についてですがやそういうものに対し、慰めの碑を石塚・癖改築と助役人事に(一いて辛酔㎡一一■一一毛四手霊一部や凸四ぞ■串睡》《■一一一一■酔函》一四画一一一■一■いう考えをもっているか。町長・・については、たびたび脚注患御撫継をいただいており.充分r解致しています。秘としても§川として、この狐から離れたことがありません。助役がいるのど、いないのでは、町の軌行に聾やていろいろの欠淵獣出ることも良くわきまえまして呪在爽剣に研究を続けています。次催・・についてですが、内群歴ついては依存していません。しかし、それが典爽であるとすると、那珂閥からでは、あの沢ひとつ越せば、卜〃陳、八本はつながっているので、一)れに対して椿さんの充分な即潅兄をいただき、いかにしで、この仕那について稚北町にプラスになるか、爽行して行きたいと思います◎圧については、かねがね考えています。しかし、二とがあまりに素人の仕堺ばかりですのでなおざりにしていますが、般近になって、それをやる引受けるとの業者があるかどうか。ある医狩に聞いたらば、《い」も保秤きえ完全であれば、使川できるから引受け鞭もあるPしかし賦段は新物から兄ると、州端淡いのではないかと剛かされていますので、瀧公に於て、苑払うことに御決縦をいただけれ噸、その〃向に向って努力する舞えです《雌脈に六についてですが、惣飛碑を姓ててはと荷う大変心狐かい、しかも人怖にとんだ御発●ず号、衷心より感湖いたします肉しかし、呪在の私が毎えることは、あのルバが、いつまでも町の為に使われているのなら、あの畔に作ることが大変兇合うことと忠いますが、近いうちに昨〆の移幡をしなければならぬのではないかと満うことになると、我々役瑚の人も、般人もあそこへ肋れることが少なくなると思います。そういうことになると篭あ苓いは無緑仏のようになっては、棚済まないので、蛾も適当な蝿所につくることについては焚成ですので、以上お容え中上げます。四についてですが、何か仕駆を始める時は、鋪播側に土地の問題になりますが、土地の問題になって、役場が交換する土地を持っていたなら、大変問題が邪く片付くのではないかと思います。そういう役目を采さな酔い凸《一》一》一一N一ヶ醍醒■厚い咋凹》『込』歩》《》己型手一FF》G三画ること雑榊だと忠います。教育長石小改築孫に吋十る、敬育委雌会の考え〃として叩しkげますが、畷快報についてはなるべく優先してその理暁幡伽をする。ご覧のような老柑校禽と荊うような形ではないのですが、約皇年くらい帆になると思いますが、それの諦甑を受けて、総務裸の方に叩込んだのが伽十九年六川と思いますが、そのころ婆風食としては、できる限り拙助蛎熊雁排込んで、圧トー年瑚りから画一年計画で爽施したいと嵩うふうに窓兄がまとまっていた岨です。舞器榊画にのせまして、総合鋤幽の方で黄金ぐりとか、その他考砿し乞上で、正士・罪からとなっているわけです。町挺の考えとしては、淀十三牢砿からとお券えになっていられることと思います。そこで五十年に調赤慨をとり、棚助がつく曲溌になるかと雷うようなことを兇た訳です。それが五十年一二月耐力唆調途をやっていただいた訳です。その結果がまだ文欝では、入っていない訳です。砿誰で問い合せた結果前の校舎は、一、三○九平方米ありますが、その占薮芽面厘・皿.凶・・・血で抽助・宣く・川一はぼど通い点敦がついているわけです。現在は、・・・〃○○噸以下でないと、剛助の対象に入らない紙です。十六番等圃議員だついては、細いところ迄脱明があったので了解いたし窯す。鋪.喧ついては、い忽に選征できるべく、いっそうの謂鳶瀞してこれを終ります勤輔・・については、少なくとも大きな緋伽、値諏な叶剛のもとに、やらなければならない蛎堆と言うか、町としての考え方になると思うので、その節には充分慨並な御配砥をお噸いして、磁問を終わります。四については、私なり仁申すならば、交換地として見合せておくのも緒椛ですが、かつ又畑地かと筒うごとで、雛蹄している浦個人名義に変更してやれば尚所布者としても満足するのではないかと奮う域に毒えるわけです。今すぐ払い下げを案行しようと言うことではありません。一応町長の考えをお聞きしたので了解いたします。通については、宝の持ちぐされと篇うか、もったいないので戸〉くらかでも利剛できるものがあれば、刺川されるよう要釧いたします(陣ついては、昨ががかわれ噸、そ二に焼るものはあわれな慰瀧であると●河端れまずが、町として、滞北の此仰であるなら鋤その蝿所へ形として残すべきであろうと忠ゥ。榔唖町蛙の彫えを洞いたい。町長懸雛碑m件で叩kげ窯返先僻申しましたが、大変州が深い御意兄で、敬慰を炎します。賊かに亡くなられたご本人はもち毛ん、家族に対しても、何かし定あげなくてはと考えていますが、あの上地に慰雛碑を立てても、もし無織仏に近い取扱いになる。又河川改修で働くことも舞えなくてはならないと思います。今からどちらがいいと訂うことは、巾し上げられませんが、適当噂時期に皆さんの総意により、建般をしたいと思いますので御了承噸いま龍十六希(寺門)識員御解袴をいただきましたので砿問を終わります。-20-

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